「要害が領地を守るのではない。人間が守るのだ。」(明智光秀、戦国武将)
光秀は度々主君を変えた。一時期越前(今の福井県)の戦国武将、朝倉義景に居候をしていたことがある。義景は頻りに要害のある場所を尋ねる。
「お主ならば何処に城を築く積りか?」
すると光秀は
「築くとしたら、寺のあるところです。しかし問題は要害が人を守るのではなく、人が国を守るのです。」
光秀は内心、
(幾ら要害、要害と尋ねられても、それを使いこなす人材育成をまるっきりしない義景殿ではダメだろう)
と思っていたに違いない。
先代の敏景は戦国武将の中でいちはやく「分国法」を制定するなど、開明的だったが、後を継いだ義景は優柔不断、猜疑心が強く、人材育成を怠り、織田信長に滅ぼされてしまう。皮肉なことに、織田信長こそ、敏景の「分国法」を忠実に守った武将だった。
なぜか・・・というか、ソフトバンクで福井市・一乗谷がCMの舞台になったことがある。風光明媚にして、天険の要塞。未だに城跡の残る美しいところだ(真冬は行くのが大変だけど)。ご記憶にある方も居られるのではないか。この一乗谷こそ、朝倉氏の根拠地だった。
光秀は信長の家臣でも極めて人材を大切にする武将だった。
稲葉一鉄の家臣の斉藤内蔵助(=春日局の実父)が見限って光秀の元に走った。当時はこんなことも許された世界だった。怒った一鉄が信長に斉藤を返せと直訴した。信長は光秀に
「斉藤を一鉄に帰してやれ。」
と言ったが、光秀は引き下がらない。
「飽く迄それがしは斉藤の意思を尊重致します。」
すると斉藤は「帰りたくありません。」と言う。
「一鉄に斉藤を帰してやらぬか。何のためにおぬしに高い禄(給与)を与えていると申すか!」
と信長も怒った。
「それがしは確かに殿から高い禄を戴いておりまする。されど斉藤内蔵助のような名のある武士に殆ど注いでおり、殿から頂戴する禄はいい人材を集めるためでございます。」
「むむむ・・・。」
信長は答える言葉も無かったという。
そんな光秀は最晩年に丹波一国(京都府の篠山盆地付近)と西近江(滋賀県西部)、54万石(34万石という説もあるが、34万石では本能寺の変で1万人以上の兵力を動員出来ない)の大名に取り立てられた。光秀と言えば逆臣というイメージが付きまとうが、この地域では未だに英雄である。偏に光秀の
人を大切にする人心掌握術が効いているのではないか。
ただし人材にカネを掛けていると主君信長に豪語するだけあって、光秀には優秀な部下こそ多いものの、彼の領国には歴史のひのき舞台に登場した天険の要塞はあまりない。
光秀の心がけは現代にも言えるだろう。
どんなに立派な建物や器械を持っていようが、使いこなすのはその人である。その人がダメならば、宝の持ち腐れになってしまうだろう。今は簡単に人をクビ切る世の中だし、そうすることで、株主から株主総会で煽られなくて済むから安易に大企業ではリストラを行ないがちだが、失うものも少なくない気がしてならない。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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