僕は従軍によりローマの市民権を得て、住居や妻を得る権利など、様々な恩恵をゲルマニアからの帰還後に手にする事が出来ました。
そして僕が最初に目指したのは、法律家になる事でした。
ゲルマニア遠征の縁で僕は将軍の秘書官を努めながら、書物を読み法律家や裁判官と対話する事が可能となり、ローマを取り仕切る法制度を身に付けていきました。
しかし、そこで僕を妨げたのは”眠り”でした。
僕は一度覚えた条文や裁判例は何一つ忘れる事はありませんでした、が、問題はローマ法を学んだ翌朝には必ず、記憶した条文や判例と一緒に、その条文が持つ根本的な欠陥や、まだ存在しない、未来に起こり得るであろう裁判の映像が、更に脳裏に植えつけられていたのでした。
最初の内は些細な問題点や矛盾、あるいは誰でも想像できる近い未来のイメージであり、僕が師事する法律家や裁判官に意見しても、興味深い内容として受け入れられてましたが、
時が経つにつれ、ローマには未だ存在しない権利や法体系、哲学の入り混じる法律や裁判のイメージが頭の中に入り込み、僕の師事する人物もその解釈にさじを投げ、逆に僕もローマの法制度の矛盾とその解決に長い道程が必要な事を悟り、法律家への道を諦めるしかありませんでした。
法律家の道を諦めた後、将軍は再び軍属を薦めてきましたが、
僕はそれよりも今頭の中にある知識や記憶をローマの為に生かし、出来る事なら生かし切った後に忘れてしまいたい、と言う事で、将軍の誘いを断わり、元老院の仕事に携わりながら知識を広める為の執筆と、私の知識を生かす場を探求する為に様々な賢者、学者と交流する道を選びました。
何より、僕の増え続ける記憶が何物なのか、止める方法は存在するのか、を、賢者達に求めていたというのも大きな理由の一つでした。
賢者や学者との対話は、大半が山師や法螺吹きの大言壮語を相手にする作業が続いていましたが、その中でも一際輝きを放つ人物にめぐり合う事も度々ありました。
エルサレムの反乱軍を率いていたヨハネスは、始めはローマと激しい戦闘を繰り広げていましたが、後にローマと和解し現在はユダヤの代表となった人物です。彼は戦闘の指揮を取っていたとは思えないほど、温和で優しげな風貌で、その頭脳の中に膨大な民族史や地理学を蓄えていました。
ディオスコリデスは若いながら軍医として遠征した経験を生かし、私のしたためた書物を模して薬草の図鑑を製作していました。彼が素晴らしかったのはギリシア人やダキア人、トラキア人と言ったローマ以外の民族の言語をそのまま用いて、薬草の植生や特性を風土と共に記録していった事です。
僕の執筆も、おそらくはローマ始まって以来、個人では最大量の書物を書き上げるほどになっていました。しかし、僕が書物として書けたのは記憶の一部――ローマの文化の延長線上や、図解で辛うじて示せる範囲――に過ぎません。あまりにも行き過ぎた概念、などはローマの言語では表し切れず、僕の頭脳の中に収めて置くしかありませんでした。
そしてその知識の増殖は、僕に一つの最終的な”答え”を与えて来ました、
それは
『知識の増殖を止めなければ、僕は命を落とすか発狂する。』
と言うことです。
人の記憶の限界は、やはり人の体積という限界を超える事は無いのです。実際に僕が対話してきた学者の中にも、学問に傾倒し過ぎて精神的に支障をきたした人間も少なからず存在し、何よりローマより遥かに進んだ僕の知識が、記憶の増大による死、を明確に予想してしまったのです。
僕はギリシアやアレクサンドリアにも赴き歴史書を読み漁り、僕と同じ症状を快癒した記録を探しました。さらに今の時代に僕と同じ症状の人間がいて、それが賢者として何処かの土地に存在しないかと探し回りました。
その頃には、既に”睡眠”は僕にとっては恐怖以外の何物でもありませんでした。
（続く）
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