部屋全体を高温部と低温部に分ける断熱壁を取っ払うと高低差が小さくなっていって一様な温度になる。物質界では多様な物たちが一様化していく方向へ、時間は流れているのだ。多様性への寛容さにこそ心の本質はあり、多様な価値を多様なままで受け容れて、自分
物質たちが集合したら無かった心が有りはじめる。それが無生物から生物への進化である。世界のうち、無生物界が占める割合は限りなく100%に近く、生物界が占める割合は限りなく0%に近いのにもかかわらず、自分はなぜ無生物でなく選りに選って生物なのか、と
アフリカ人が生まれた時から黒いことから分かるように、遺伝子に遺伝情報が記録されていて、遺伝子という記憶の座に記憶は書き込まれている。中学生が数学の公式を覚えたりクラスメイトとの会話の内容を覚えたりできるのは、脳細胞一つ一つを作っている遺伝子
僕は大学生の時は浄土真宗親鸞会という宗教団体に所属して集団行動に参加して忙しく活動していたのだけど、忙しそうにするな、忙しくなさそうにして見せろ、と教えられて、みんなその教えを実践していた。みんな本当は自分のことで精一杯で一杯一杯だけど、そ
僕が幸せを望むのは高望みなんだし、そろそろ観念しなきゃいけないのかなと思う。「難しく考え出すと結局すべてが嫌になってそっとそっと逃げ出したくなるけど」(終わりなき旅)というミスチルの歌詞があるけど、考えなくても直感的に分かるレベルがなく、難
僕は、髭を剃るときに血まみれになるほど深剃りしても剃り残しが目立つ、というふうに、強すぎも弱すぎもしない力加減で、そっと力を入れる、ということが、苦手なので、手動でない電動髭剃りを使っているのだけど、こういう不器用さは、コミュニケーションの
自分の感じ方に基づく考え方を兄によって全否定されて全面撤回させられながら育って、兄という他者を内面化して形成した、肥大した超自我によって、抑圧されて押し潰されて、感じる心が萎縮してしまっている、僕は、内心が恐縮して外に出て行けなくなってしま
遺伝子は細胞の設計図だけど、神の心の中に世界創造の設計図が存在するのと同じように、遺伝子は物質ではなく心の中にしか存在しない幻覚なのではないか、という仮説を、思い切って提唱してみようと思う。六十兆個の細胞の中にある人間の遺伝子の情報は、すべ
しっかりしている頼れる人を見ると甘えが出るのは確かだと思う。であれば、成長過程のどこかで、自分はもう大人なんだから、しっかりしなきゃ、と決意した時から、つけあがる者が現れることになるだろう。誰だって甘えたいという欲求を一生懸命我慢しているか
僕の中央大学時代の木田元という先生は、哲学者らしくない哲学者で、気難しくて不機嫌な近寄り難い哲学者が多い中で、いつも楽しそうにニコニコしておられた。哲学を志す以前に、戦後間もない焼け跡で闇屋をやってホームレス同然の生活をして、現状を嘆いたり
否定は一つのものを多くのものにするのに対して肯定は多くのものを一つのものにする。つまり肯定とは統一乃至統合のことで、否定されながら育ったために統合失調症を患っている患者において観察されるように、一つの心全体が意識によって抑圧否定されて粉々の
メンヘラというのは境界性パーソナリティ障害とか自己愛性パーソナリティ障害とかに代表されるのだけど、境界性のメンヘラも自己愛性のメンヘラも、多動性があるためにアクティブキチガイと呼ばれる。それで、僕は彼らのように活発ではなく大人しいタイプだか
境界性パーソナリティ障害にせよ、演技性パーソナリティ障害にせよ、反社会性パーソナリティ障害にせよ、回避性パーソナリティ障害にせよ、強迫性パーソナリティ障害にせよ、それぞれについての精神医学の各論があるけれど、それはさておき、精神医学の総論に
コミュ障を治すには、相手に応じた話し方を身に付けなければならない。話し方教室で教えられているような手っ取り早いテクニック論に走った方法論も参考になるけど、僕は、自己の客観視の困難を抱えている、一統合失調症患者として、こういうふうに話していて
恋というのは片想いを両想いであるかのように思い違いさせる狂気で、境界性パーソナリティ障害の女の子が男に愛想尽かされて捨てられてしまうまで愛情飢餓の隠喩表現による試し行為をやめられないのも、男にとって愛情を試されることがどういうことであるか、
文系の僕の自然な感じ方を否定する理系の兄の不自然な考え方を肯定させられることから人生が出発している、という意味で、僕は本来は文系だけど、僕を外側から表面的に見れば、極端な理系脳に見えるから、発達障害だと誤解されることがある。だけど、それは、
僕は統合失調症患者だ。統合失調症のハンドブックを読めば、統合失調症患者の妄想を否定してはいけません、患者が否定された箇所について自分なりの辻褄を付けようと考えて妄想の世界をいっそう詳しくしてしまうからです、と、健常者に向けた、患者への接し方
ニーチェはニーチェなりに俗世を表面的に見て俗世を理解したつもりになってこれが俗世の価値観だとして象牙の塔に知らしめようとしたのだけど、ニーチェはニーチェに対して見せる俗世の表向きの顔を見ていたにすぎず、背後に溢れんばかりの優しさという裏があ
人は、生まれた時は、周囲の手厚い庇護を必要とする、か弱い存在だ。だから、強気の自分を、作り上げていく必要がある。それが成功してきたら、弱気の自分が顔を出すことも段々なくなっていくだろう。強そうに見える人は、一見強そうだから、怖そうなあんちゃ
光は光子という大きさのない点粒子からなるのだけど、光にとっては、一点に全空間が収縮し切っていて、光は全空間に同時に遍在している、という意味で、時間経過なしの空間移動が実現していて、光は自分以外の全ての者たちに対して光速度という無限大の速度で
我々は、自我と他我たちとからなる。自他が関係し合うに際して、相手の立場に立って考える、ということを、我々は、お互いに、やっている。対人関係の場面で、無意識のうちに、我々が、やっている、自他の立場を置き換えて考える、ということは、どういうこと
光子に代表される光速度運動する重さのない素粒子が無限個集まって凝り固まったら重さのある物質粒子になるのだけど、重さのある物質においては時間が空間化しているのに対して、重さのない光においては時間から空間が未だ分化していない、ということは、三次
大学入学して哲学徒になり、一番最初に引っ掛かった疑問を、僕は、依然解消できていないようだから、改めて問いの答えを見出すべく、以下に考えてみる。哲学の本質は独我論にある、と僕は思う。独我論とは、他人に心は存在しないとする前提から出発する議論だ