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2019年07月15日23:19

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塩尻峠古戦場

甲斐国の武田晴信は諏訪氏を滅ぼして以降、信濃国へ積極的進出を行っていたが天文17年(1548年)、北信濃の雄・村上義清を相手に上田原の戦いで激突するが家老・板垣信方や甘利虎泰らが戦死し自身も負傷する大敗を喫した。

これにより信濃国の反武田派は勢いづき、1ヶ月後には義清が佐久郡に侵攻して武田方の内山城を襲撃している。それまで晴信に圧迫されていた信濃守護・小笠原長時は好機到来として義清や安曇群の仁科盛能らと連合して諏訪へ侵攻し、諏訪下社を占領した。さらに花岡氏や矢島満清など諏訪西方衆と呼ばれる豪族たちを寝返らせ、武田氏の諏訪支配の拠点であった上原城へ攻め寄せる。上原城主は板垣信方であったが彼の戦死を受けて城内は混乱していた。

これを受けて晴信は甲府を出陣したものの大井森に布陣したまま1週間動かなかった。あえて遅延行軍する事で相手の油断を誘った心理戦であったとする。小笠原軍は兵力的にも戦局的にも優位な状況であったがその大半は寄せ集めの軍勢であったため結束力どころか内部対立を起こしていた。長時の舅である仁科盛能は作戦方針を巡って対立したため独断で撤退し、その他の豪族にも晴信の調略の手が及んでいた。

上原城に入った武田軍はその日の夜間に密かに出陣し翌朝の早朝、午前6時前後頃に塩尻峠に布陣していた小笠原軍に対して奇襲攻撃を行う。小笠原軍は大半がまだ武具を解いて就寝中であり、全く相手する事が出来なかった。まともな抵抗も出来ずに千人近い戦死者を出して総崩れとなる。

小笠原長時は居城である林城に敗走し、敗北の痛手は大きくその後まともに抵抗する事は出来なかった。勝利した武田軍は諏訪から佐久郡へと侵攻して敵対する13もの城を攻め落として制圧し、そのまま筑摩郡に舞い戻って林城から2里という目と鼻の先に村井城を築城して抑えとした。天文19年(1550年)、武田軍は林城をも攻め落とし信濃守護・小笠原氏は滅亡に至る。


塩尻峠の戦いは現在でも現地に「塩尻峠」と呼ばれる峠があるものの、実際にはそこから南の「勝弦峠」で行われたものであると近年の研究で提唱されている。この峠を越えて進んでいった先の柿沢集落には小笠原軍の戦死者を弔った首塚と胴塚がある。永井坂で戦死した兵たちのものであると伝わっている。恐らく峠から敗走する小笠原軍を武田軍が激しく追撃し、この一帯も戦火に見舞われたのであろう。

合戦の論功行賞をするため晴信は首実検を行った後、遺体を放置して撤退していった。柿沢の村人たちはこれを哀れに思って首塚と胴塚を築いて懇ろに弔った。その後戦国の世は天下統一を迎え、江戸時代や明治の近代化の中でこれらの塚は住民たちからも忘れ去られていき草木に覆われていった。

昭和10(1935年)、現地にすむ熊谷喜蔵氏がこの惨状を嘆き多くの有志者を募って寄付金を集めた。そして小笠原氏支流の末裔で子爵かつ海軍中将であった小笠原長生(ながなり)の承認を得た上で現在の首塚・胴塚が建立された。なお、長生の父である長行(ながみち)は肥前国唐津藩主の嫡男であり幕府老中である。


諏訪・松本の旅は最後に塩尻にまで及びましたがこれにて終了。
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