何度か読んでいて、何度か日記にも書いた事がある。アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」、解放から70年http://www.afpbb.com/articles/-/3037740?pid=15081151時折、上記のような記事を見たり、小説やテレビや何かで見聞きした時に思い出すのだけれど。
ぼくは七輪が好きで、幼少の頃の娘を連れてはそこらじゅうで年に何度も七輪バーベキューをしていた。娘たちの記憶や思い出にも普通な感覚で七輪バーベキューが残っているんじゃないだろうか。ごく普通の鉄板バーベキューも複数家族で毎夏二回はやっていたかと
自分の望む自分、なのではないかな。今の自分は、自分の望まない自分であるからこそ、探そうとする。そして望みたい自分すらわからない。今の自分は望まない自分なので、探している望んでいる自分など見つかるわけが無い。散々望んで進んだ道の辿り着いた場所
もちろん、初めて出会う人たちばかりなので、第一印象を色々言われるのだけれど。色々言われるのだけれど、大抵は同じ事しか言われない。異動先では営業、外回りに復活したので、名刺を200枚は余裕で配っている程に回っている、これからもっと回る。今回の異
うちは逆だ。ぼくが聴く。ぼくは言わない。まず仕事の話を家でしない。うまく行った時の事は自慢げにするけれど。で、あまりに嫁さんの愚痴が凄い時に、ぼくも敢えて言う。すると「もっと楽をすれば」と言われる。違う違う。仕事の事を話せばそう思われる程に
前にも言ったけれど。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」これで駄目なら駄目だ。「やってみせ」と言う事は「出来る人が目の前に居ると言う事をまず見せられる」事。それに「言って聞かせて、させてみせ」と言う事は「
子供は、黙っていても、理解していなくとも、生きているからには大人と同じく全部背負っている。様々な事情を抱えつつも、そんな子供の事をわかってやり、支えられる者が、親であり大人、なんだ。子供を持ちながら、それが出来ない者は、半人前。もっと子供を
ぼく自身は、確か14、5歳の時に考え終わっていて、考えようとしても特に考えられない。けれども、良く見掛け、良く聴く設問なので、その都度考えている。ちなみに「意味」とは物事に対しあとから付けているものと言う事はわかっている。付けなければそれはそ