自分の望む自分、なのではないかな。
今の自分は、自分の望まない自分であるからこそ、探そうとする。
そして望みたい自分すらわからない。
今の自分は望まない自分なので、探している望んでいる自分など見つかるわけが無い。
散々望んで進んだ道の辿り着いた場所に居る自分が、求めていた自分ではないとする。
それも自分なのに、まだ自分探しをする。
目の前にあって目には見えていても認識出来ない事が人間にはある。
別に望んだって構わないけれど、それは『成る』自分であって、探して見つかる自分ではない。
つまり、まだ、全然成っていない自分が居る。
そこには。
探す事など無く。
探さなければならないのは、自分ではなく、生きている以上心の何処かに必ず存在している勇気だな。
その勇気で事実を認める事からはじまる。
ただ、そのはじまりは、事実を認めてしまったが故に、心が死んでしまう者も居るけれど。
生き延びる事が目的なら、認識しないのも、ありだ。
もともと生命は、とても優れた能力や文化でも、抹殺してしまえる我を持っている。
自分の心や見ているものをねじ曲げる事は、容易な事。
それもまた、能力であり文化だ。
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