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2008年08月01日18:07

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縛られながらも使うのが文化

以前、大衆文化について書いた際にマイミクさんから面白いコメントをもらった。

私自身は大衆文化批判が結構好きで、大衆の一人であるはずの自分でもエリート主義的な文化論に陥りやすいなと反省することしばしばなのだが、「嫌われる知識人」にならないようにもうちょっと冷静に文化について考えてみた。

個別の文化を越えた普遍的な「人間」の模索というのが啓蒙主義以来の近代思想の根底にある。

自由主義にしろマルクス主義にしろ、日本文化とか西洋文化といった個別の文化を否定する傾向があった。

最近ではこうした傾向に対する反省から、社会理論とか社会科学全体で文化というのが注目を集めている。

文化の捉え方の一つとして、それは我々の意識や行動を「拘束」するものという見方がある。

我々の意識というのは文化によって縛られていて、その外側にあるものを理解するどころか認識することさえできないという議論だ。

文化の最たるものとして言語があるわけだが、以前にも書いたように言語というのは自然界にあるものに対応しているわけではない。

それは人間自身が勝手に自然を分類したものなのである。

我々は生まれた時から特定の言語を習得し、それを通じてその言語の背景にある文化を吸収する。

そうした文化というのは単に世間を渡るための道具というわけではない。

それは我々の自己理解の一部となって、どこに行こうと一生我々につきまとう。

例えば、日本(人)を蔑むような発言を聞くと、我々個人が攻撃されたような気がする。

じゃあ日本人をやめて、もっと箔のあるアイデンティティを取得しようとしても、それは容易ではない。

そして文化というのは時代や場所によって異なる。

特定の時代に特定の場所で暮らしている人々の世界の理解というのは個別の文化によって縛られていて、他の時代や他の場所で暮らす人たちとの間に完全な相互理解は成立しないということになる。

こうして、啓蒙思想とは逆に、文化というのが今度は乗り越えがたい壁として「人間」を様々な文化共同体に分割してしまう。

でも、文化というのは「拘束」であると同時に「リソース」でもある。

ここでも言語というのがよい例である。

言語は我々の意識を制限するけど、そもそも言語を習得しなければ我々の住んでいる世界を意味のあるものにすることができない。

言語を持たない者は自分の様々な経験を分類できないから、脳に効率よく記憶したり、他人に要領よく伝達する術に欠ける。

恐らく動物が文化を持たないのはそのせいだ(最近ではサルみたいな動物には群れによって異なる文化みたいなものがあるってことがわかってきたみたいだけど)。

日本語自体を批判の対象にするにしても、まずは日本語を学ばなければ不可能である。

そもそも文化批判というのも、我々自身が文化によって拘束されているから意味があるのであって、その場の気まぐれで何でも許されるような社会では批判の対象さえ失ってしまう。

そして、一つの文化の中で育っているから、また他の文化との比較が可能になる。

自分の言語や文化というのは物心がつくころには決まってしまっていて、個人で自由に選択できない部分が大きいのであるが、それで個人が既存の文化に自動的に分類されてしまうというわけではない。

そのリソースを利用していかなる人生を追求するかを決定し、それをまたそれぞれの文化にフィードバックしていくのはそれぞれの個人である。

そうした個人の活動を通じて文化というのは豊かにもなり貧しくもなるし、その境界線も変化していく。

言語の例を使えば、今日的な意味での「国家」、「社会」、「民族」、「文化」なんて言葉は皆明治維新後に入って来た外来語の翻訳である。

日本語にはなかったような概念を理解して邦語訳をつけることにより、日本語自体がより豊かになったとも言える。

それに、こうした言葉の意味を巡って行われた議論というのが今日の我々の「日本」の国の理解の基礎となっている。

こうした議論の過程で、外来語の本来の意味に日本固有の意味が付け加わる。

更に、こうした議論に終わりはない。今日でも日本の「国家」、「社会」、「文化」なんていうのは何かというのは現在進行形で問われ続けている。

日本語の意味もそれによって現在進行形で変わる。

こうした「日本」の意味についての議論が広く国民の間で行われている限りにおいて、多様な文化を擁する日本が一つの国(ネーション)=文化共同体だと言えるのではないか。

マイミクさんの指摘でもう一つ興味深いのが、異なる文化の間のバランス。

いずれの文化も特定の時代や場所を越える普遍的な真理を主張できない以上、一つの文化が突出して強くならないように、常に多様な文化の間でバランスが保たれるようにしておかないということかもしれない。

西洋ではゴールデン・ミーンとかバランス・オブ・パワーなんて言われる概念が昔からあるし、儒教にも中庸の美徳が説かれる。

ある文化が強くなって普遍性を主張し始めたとき、それに対する抵抗のリソースとなる文化が多ければ多いほどよい。

大衆文化とかハリウッド映画みたいなグローバル文化に対する批判も、そうした文化の中身の善し悪しというより、同質的な人々を生むというところにある。

私が国民文化なんて呼ばれるものにちょっと懐疑的なのも同じ理由からなのだ。
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