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2008年04月16日16:40

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昨日の敵は今日の友

仏製品ボイコット広がる、「仏側に問題あり」と批判コメント―中国外交部
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=462141&media_id=31

ボクシング部だった高校時代。

インターハイや国体の予選があるのだが、ヘタレな私はいつも一回戦で敗退して応援に回る。

もう減量しなくてよいのでホッとするのであるが、自分の同僚がリングでボコボコにされていたりすると他人事ではいられなかったりする。

思わず、リングに駆け上がって相手をしばいてやりたい衝動にかられる。

県大会が終わると今度は地区大会。県大会で自分や自分の同僚をボコボコにした奴が、今度は他県の代表にボコボコにされたりする。

そうすると、県予選では敵だった人たちに思い切り感情移入して、他県の奴をボコボコにしてやりたい気になる。

でもそれはできないから、やじりまくってレフリーに反則とらせたりする。結局、ボクサーとしては明らかに相手の方が上手で、我が県の代表は負けてしまうのだが、「反則で勝つなんて、なんて卑怯な奴らだ」なんて言って自分たちを慰めたりする。

2006年のサッカーのワールドカップ。大学の図書館のテレビの前に座っていたらやたら人が集まって来て、何かと思ったら日本―ブラジル戦が始まった。

見ているのはブラジル人ばかりじゃないけど、皆王者ブラジルが日本をボコボコにするのを期待している。皆が余裕で見ているところに、負け犬日本が先取点をとったりしたものだから、思わず応援にも力が入る。

最初は無視していたのだけど、だんだん周囲の応援がしゃくに障ってきて、結局最後は思いっきり日本を応援してしまった。別に親戚や知り合いにサッカー関係者がいる訳でもないのに。普段はブラジル好きの私が、これほどブラジル人を憎んだ日は他にない。

愛校心、郷土愛、愛国心だよ、と言ってしまうのは簡単だが、こんなに簡単に昨日の敵やアカの他人が今日の友になるのは何故なんだろう。

と思っていたら、こんな実験の話を聞いた。お互い顔も知らない人たちを2つのグループに分けてゲームで競わせると、ついさっきまでアカの他人だった人たちの間にすぐに妙な連帯感が生まれる。

そうすると、同じグループの中では全然共通性のないはずの人たちの間の共通性が、別のグループの人たちとの間ではさっきまでなかった違いが作り出され、誇張される。

しかも、自分たちのグループにはポジティブな属性(「頭が良い」、「正直」、「働き者」など)、他のグループにはネガティブな属性(「卑怯」、「頭悪い」、「怠け者」)が与えられる。

ドイツの保守系法学者・思想家にCarl Schmitt という人がいる。

ワイマール共和国を共産主義とファシズムの脅威から救うため、リベラル・デモクラシーを痛烈に批判して大統領に非常特権を与えるよう進言したりする。

でも、ヒトラーが政権につくと、一転してナチス党員になりそのイデオローグになる。でも、最後はSSから睨まれてしまい、戦後にはナチに加担したということで大学も追われてしまう。

こんな変節者である彼の政治理論が近年注目を集めている。しかも右派のみならず左派からも。理由は、ワイマール期に書かれた彼のリベラル・デモクラシー批判があまりにも鋭いからだ。

彼の批判の根拠となる哲学は、政治=友敵関係。政治とは「人民」が自分たちの同質性を脅かすものを特定し、それを「敵」として排除するものだということだ。

共産主義者とかファシストという最初から民主主義を否定している人たちに、「まずは話し合おう」なんて言っているリベラルな人たちは政治が何たるか知らないというのが彼の批判である。

でも、シュミットは「敵」とは何かということに議論を尽くすのであるが、「友」についてはあまり語ることがない。何か彼にとっては「友」よりも「敵」の存在の方が大事なんじゃないかという気もしてしまう。

もちろん、彼の念頭にはドイツ民族からなるドイツという国がある訳だが、この「ドイツ」の同質性が何に由来するのかについては、シュミットは無関心である。それは人種、民族、言語、文化、イデオロギー、その他何でもよいのだ。彼が簡単に忠誠心をワイマール共和国からナチスに移せたのも、ここらに理由があるのかもしれない。

実際、彼は民主主義における同質性の重要性を語るときにルソーを引用する。でも、ルソーの国家観における文化の同質性というのは極めてマキャベリアンなものである。すなわち、国家における文化の同質性というのは既にある民族とかによるものではなくて、政治的目的のために作り出され、政治によって維持されるものなのである。

日本代表がワールドカップや五輪で戦っているのを見て、ほとんど条件反射のように心から湧き出る「愛国心」。これが本当の戦争だったりしたら、どんなことになるか想像するに難くない。

でも、この「愛国心」は我々の遺伝子に組み込まれているようなものではないようだ。我々は、結構節操もなく、どんなグループにでも自己を同一化できる。

しかし、人工的に作られたものとはいえ、ひとたび「我々」と「彼ら」の間に恣意的な線が引かれ、その再生産が制度化されると、それは容易に「友」と「敵」の関係に転化する。

ワールカップや五輪もそうした線の再生産に寄与する制度なんだな。でも、スポーツやゲームでナショナル・プライドを賭けて各国が競い合う分にはよいけど、それが競技場の外にまで持ち出されると、フーリガン同士の喧嘩みたいになってしまう訳だな。
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