『めぞん一刻』の登場人物は、いわば奇矯な人物の展示場でもある。
アルコール摂取を切らさない専業主婦の一ノ瀬、アパートの廊下や五代の部屋をスケスケ下着で歩き回る六本木朱美、極めつけは職業・年齢不詳で、HCIA(日の丸CIA)のエージェント疑惑すら漂う四谷。下の名前はむしろ「怪談」ではないか、と言いたくなるほどである。
けれども、あの作品世界には、ひとつ大きな安心がある。
それは、彼らがどれほど変人であっても、理由なく他人に物理的な危害を加えることはない、ということだ。
精神的、あるいは経済的な迷惑はあっても、そこだけは守られている。
だから読者は安心して笑っていられる。
ラブコメで、恋が成就しない側に立たされる人物は、しばしば気の毒だ。
その代表的な一人は、『きまぐれオレンジ☆ロード』の檜山ひかるではないかと思う。
主人公を慕い、鮎川まどかを信頼していたのに、結局はその二人の恋の成就を見せつけられる立場になる。
しかも、恭介とまどかが互いに惹かれ合っていることに、彼女がはっきり気づくのは終幕近くになってからだ。
恭介からきちんと向き合った謝罪は受ける。だが、それで救われたとは言いにくい。
それでも、この少女がその後に闇落ちするとは、私は思わない。
確信を持ってそう言える。
昔のラブコメやフィクションには、そういう意味で、世界への絶対的な信頼があった。
「恋が実らなかったからといって、それが暴力へは転化しない」という約束が、暗黙のうちに守られていたのである。
だが、昨今の現実はどうだろう。
ストーカー化するだけでなく、恨みから家族にまで刃物を向けたり、放火に及んだりして、人を死に至らしめる事件が珍しくない。
そういう現実に触れてしまうと、昔のラブコメが前提にしていた「世界の約束」は、もはや自明ではなくなっているように思える。
物語を安心して読む、あるいは鑑賞するためには、その物語世界の信頼、あるいは約束が絶対条件なのだと思う。
これはミステリでも同じで、犯人以外の人物までその約束の外に出てしまったら、読者は安心して作品に身を預けられない。
そしてそれは、現実を安心して生きるための条件とも、どこかでつながっているのだろう。
たとえば建物でも機械でも、少し傷んでいるくらいなら、まだ全体の形はわかるし、どこを直せばいいかも見当がつく。
だが、傷みやひび割れがあまりに多くなると、もう元の形そのものが見えなくなる。
どこが例外で、どこが土台なのかもわからなくなる。
私が言いたいのは、それと同じことである。
世界に少しのほころびがあるのは仕方がない。
だが、ほころびだらけになった世界では、人はもう「何を信じて生きればよいのか」を見失ってしまう。
昔のラブコメが無邪気に預けていた世界への信頼は、じつはかなり貴重なものだったのかもしれない。
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