今日は、『めぞん一刻』の前半と後半を分ける境目はどこか、ということを考えていた。
私はやはり、金沢・能登旅行のくだりが、その境界だったと思う。
それ以前の『めぞん一刻』では、響子が五代をどう思っているのかが、読者にはまだ不透明だった。五代の気持ちは明らかでも、響子の側にはためらいも逃げ道もあり、三鷹もまた単なる当て馬ではなく、条件のよい「正しい相手」として機能していた。だから前半のラブコメは、「五代は本当に報われるのか」という不確かさで読ませていたのだと思う。
その構図が崩れるのが、あの旅行の前後である。
犬に怯えた三鷹が響子に抱きつき、それを見た五代が身を引く。閉じられた扉、諦めたような目、それを見て追いかけ、誤解を解こうとする響子。ここで響子は初めて、五代を失うかもしれない痛みをまともに受けたのではないか。
このあたりから、彼女はもう三鷹に実質心を揺らさなくなる。三鷹は表面上は障害であり続けても、もはや本当の意味での対抗馬ではなくなっていたように思う。
そして宿での再会も大きい。
響子は表面では偶然だと思おうとしていても、五代が自分を探しに来たのではないかと、無意識では分かっていたのではないか。そうでなければ、あの場面はあれほど深く響かない。
ここで響子の中に、「この人はいなくなっては困る人だ」という感覚が、ごまかしきれない形で生まれたのだと思う。
だから、あの旅行を境に『めぞん一刻』は変わる。
前半は、響子の心がまだ読者にとって不透明であることが面白さだった。
後半は、二人が結ばれるべきことはもう見えているのに、そこへ至るまでの障害をどう越えるかを見守る物語になる。読者も「どちらを選ぶのか」を見る段階から、「この二人を応援する」段階へ移る。
このことを考えていると、小松左京『果てしなき流れの果て』の終盤や、ペール・ギュントがソルヴェイグのもとへ還る時の情感を思い出す。長い時間を経た末に、ようやく帰るべき場所に触れる、あの種類のエモさである。
『めぞん一刻』はそこまで神話的ではないが、ラブコメという形の中で、それに近い強度に触れていた。しかも最初から帰る場所があるのではなく、二人の関係の中でそれが少しずつ作られていく。
その意味でも、金沢・能登旅行は、二人が互いを「帰る場所」として意識し始める転換点だったのではないかと思う。
私にはやはり、あそこが『めぞん一刻』の前半と後半を分ける境界に見える。
前半の不透明な恋愛喜劇が、後半の「この二人がどう結ばれるか」を見守る物語へ変わる、その折れ目が、あの旅の中にある
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