映画というものは、見る前にすでに半分くらい誤解されているのかもしれない。
いや、少なくとも私の映画体験には、そういうものがいくつかある。
まず『REX』である。
安達祐実が出ている、あのティラノサウルスの幼獣REXの映画だ。私の記憶に残っているのは、REXがピーマンを食べる場面である。そこがこの映画の「感動の名場面」だったのかどうかは、今となっては少々怪しい。だが少なくとも、こちらとしては「ティラノサウルスがピーマンを食べる」という一点が強烈で、そこに映画のすべてが吸い寄せられてしまった。
娘がまだ幼児のころ、付き添いで見に行ったのだが、たしかに子ども向け映画としては成立していたのだろう。子どもは恐竜が出るだけで、もうかなり嬉しい。
しかしこちらはつい、余計なことを考える。
ティラノサウルスの幼獣はそんなに素直にピーマンを食べるのか。というより、そもそもそこは感動するところなのか。動物学的にも、感動の力点としても、いろいろ疑問は尽きない。
今ではほとんど振り返られない映画になっているのも、まあ分からなくはない。
だが、これはまだ映画そのものの話である。
本格的な誤解は、むしろ映画の外側で起きる。
昔、母がテレビの映画紹介を見て、「SF映画上映会」があると言った。場所は、大阪・弁天町の交通科学博物館の映像ホールである。あれは私が高校生くらいの時だったろうか。
なぜ交通科学博物館でSF映画なのか。
当時の私は少し考えた。未来の交通機関でも出るのだろうか。宇宙船とか、反重力列車とか、そういうものかもしれない。交通とSFは、まあ、つながらないでもない。
で、見に行った。
すると、出てきたのはSLだった。
未来の交通機関どころか、蒸気機関車である。
SFではないのか。
いや、たしかに鉄と火と蒸気のロマンはある。あるが、こちらの期待していた種類の未来ではなかった。
結局、母の聞き間違いだったらしい。
「SF映画上映会」ではなく、何か別の上映会だったのだろう。こちらは勝手に宇宙まで行っていたのに、実際に走っていたのは線路の上だけだった。
しかし、誤解の映画体験の極めつけは、そのずっと後にやって来た。
ラジオで耳にした感動映画、『死ぬまでにしたい10のこと』である。
「感動映画」と聞けば、こちらもつい都合よく解釈する。人生を見つめ、家族の絆を再確認し、泣いても最後には静かな光が差す、そういう種類の映画を何となく想像する。しかも上映はもう終わるという。
それはいけない、見ておかねばならない。
私は妻に声をかけ、学校帰りの小学生の娘二人も連れて、これまた弁天町の交通科学博物館の映像ホールへ向かった。
結果として、私は激しく後悔した。
映画は『REX』の逆だった。
あちらは恐竜がピーマンを食べる話で、こちらは人が死ぬ前に人生の忘れ物を片づけていく話である。しかもその中には、最愛の伴侶に別の愛する人を“あてがう”とでもいうべき展開まで含まれていた。
これは、小学生の娘二人を連れて見る種類の映画ではなかった。
私は映画を見ながら、感動するより先に、「なぜ私は子どもを連れてきてしまったのだろう」と何度も思った。
映画が悪いのではない。
たぶん、どちらも映画の側は、自分がどういう映画かをそれなりに表明していたのである。問題は、それを受け取るこちらの側が、勝手に都合のいい物語へ変換してしまうことだ。
恐竜映画なら子ども向けだろう。
交通科学博物館のSF上映会なら未来の乗り物が出るだろう。
感動映画なら家族連れでも大丈夫だろう。
こうして人は、上映前にすでに自分の中で一本映画を作ってしまう。
そして本物の映画は、たいていその自家製映画と少し、あるいは盛大に違っている。
思えば、映画とはスクリーンの上だけで起こるものではない。
その前段階から、すでに人は誤解し、期待し、勝手に話を作り始めている。
そう考えると、私が見てきた映画の何本かは、作品そのものより、そこへ至るまでの誤解のほうがむしろ面白かったのかもしれない。
笑い話のようだが、本当の話である。
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