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2026年08月26日01:35

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特効薬があってもらい病患者を隔離し続けた理由

 今日は、人権宣言記念日です。1789年の今日、フランスの憲法制定国民議会が「人間と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)を採択したことに由来するようです。
 人権というと、小・中学校で学んだように、日本国憲法でも、�ヾ靄榲�人権の尊重は、�⊆膰∈潴院聞駝閏膰◆法↓J刃村腟舛閥Δ烹蛎膰饗Г琉譴弔箸気譴討�り、この3大原則は互いに密接に関係しています。
 �△亮膰∈潴韻箸いΔ海箸蓮�国民の一人一人が自律的な意思決定ができるということです。
 そのためには、平和であること(��)がもちろん必要ですが、国民の一人一人が十分に個人として尊重される必要があります。
 そこで、憲法13条(その第1文には「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定されている)は明文でこれを宣言し、その実質化のために、憲法は各種の人権を保障しています(� 法�
 ところが、自民党の憲法改正案ではわざわざ「全て国民は、人として尊重される」と書き改められています。
 つまり、国民を「個人として」尊重しようというのではないのです。
 この点について、注目すべき文献が今から12年前にすでに浦部法穂弁護士(元神戸大学法学部教授)が書かれていたことを発見しましたので、以下にその全文を引用します。


 「すべて国民は、個人として尊重される」とする憲法13条に示された「個人の尊重」原理こそ日本国憲法の最も根底にある原理だということは、これまで私は折に触れ言ってきた。この規定を、自民党改憲案は「すべて国民は、人として尊重される」と変えようする。「個人」という言葉を「人」に変えるというのだが、その理由は明示的には語られていない。が、どうも自民党は、「個人」が嫌いなようだ。「個人」というのは自分の権利ばかりを主張して「国や国民全体の利益」をないがしろにする好ましくない存在だ、ということなのだろう。ただ、そういう「個人」のとらえ方は、自民党だけのものというよりも、日本社会ではある意味一般的だともいえる。実際、日本では、「個人主義」という言葉は、一般には、「自分のことしか考えない」などといったような、よくない意味で使われることの方が多いように思う。

 「個人」とか「個人主義」という言葉は、こんにちでこそ私たちはあたりまえのように使っているが、もともとの日本語には「個人」という言葉はなかったという。それは、幕末から明治初期に、西欧文明を摂取していくなかで、英語で言えばindividualの翻訳語としてつくられた言葉であった。もともとの日本語にはindividualを表す適切な言葉がなかったのである。言葉がなかったということは、それに対応する実体(態)もなかったということを意味する。つまり、日本には「個人」は存在しなかった、ということである。「そんなバカな。日本にだって大昔から個々の人間はいたのだから、『個人』は存在しただろう」と思われるかもしれない。だが、個々の人間は存在したが、それは、「個人」(individual)に対応するような人間の存在の仕方ではなかったのである。

 西欧的なindividualというのは、ただ単に個々ばらばらに存在する人を意味するのでなく、自立した人格的存在としての一人ひとりの人間を意味する。そういう人間観が日本にはなかったから、individualを表現できる言葉が日本語にはなかったのであり、それを表しうるような言葉をつくらなければならなかったわけである。そうしてつくられた言葉が「個人」であり、したがって、「個人」という言葉は、一人ひとりの人間というだけでなく、自立した人格的存在という意味を含んだ言葉なのである。だから、「個人として尊重される」とは「一人ひとりが自立した人格的存在として尊重される」ということを意味する。それは、一人ひとりがそれぞれに固有の価値をもっているという認識のうえに、それぞれの人がもっているそれぞれの価値を等しく認めあっていこう、というものである。

 人間を「個人」つまり自立した人格的存在としてとらえ、そういう「個人」を「社会」の基本的構成要素とする考え方が「個人主義」である。ここでは、「個人」が「社会」的存在であることは当然の前提となっている。したがって、「社会」のなかで、自分が「個人として尊重される」と同時に、他者も同じように「個人として尊重される」ことが求められる。つまり、お互いがお互いを自立した人格的存在として尊重することが求められるわけである。「自分のことしか考えない」のでは「社会」的存在としての「個人」にはなり得ないのである。そういう意味で、「個人主義」と「利己主義」は、本来明確に区別されなければならないものである。

 人間を「個人」としてとらえるのでなく、その属性(集団帰属)によってとらえ、そうした諸集団を「社会」の基本的構成要素とする考え方は、「個人主義」に対して「集団主義」と呼ぶことができる。たとえば、封建社会は、人を身分によって序列づけ、そのような諸身分によって構成される社会であったから、「個人主義」の社会ではなく、いわば「集団主義」の社会であった。西欧では、そうした封建社会のなかから、自然発生的に「個人」が、つまり、「身分」の価値ではなく一個の人格としての価値を主張する自立した人々が、生まれてきた。しかし、日本の場合には、1868年のいわゆる「明治維新」以後も、社会のあり方は「集団主義」のままであり、国家体制としても、そのような社会のあり方を統治手段として再編・温存してきた(典型的には、天皇制と「家」制度)。そして、戦後は、工業化・都市化の進展とともに、しだいに、旧来の地縁・血縁を基軸とする集団は崩壊してきたが、それに代わって人々を包摂する新たな集団として、「会社」が大きな役割を果たしてきた。こうして、日本社会は、「集団主義」の要素をもちつづけてきたのである。

 「集団主義」の社会では、一人ひとりの集団構成員の権利・利益は、その集団が守る、という仕組みになる。したがって、一人ひとりの人間にとっては、自分の権利・利益を守るために必ずしも自分が何かする必要はなく、集団のなかでおとなしくしていさえすれば集団が守ってくれる、というわけであるから、ある意味で楽なシステムである。しかし逆に、集団のなかで、他の集団構成員とは違うことをしたり言ったりすれば、そのような人が集団のなかにいるということは、集団の結束力を弱め、集団による構成員の権利・利益保護の力を弱めることになるから、他の集団構成員にしてみれば、はなはだ迷惑な存在ということになる。だから、ここでは、「みんな同じ」(周りへの同調)がいいこととされ、「自己主張」は全体の利益を害するものとして「悪」とみなされる。「自分は自分である」と主張することは、つまりは「個人」の主張は、よくないこととされるのである。「集団主義」的な要素がなお抜きがたく残っている日本社会で、「個人」や「個人主義」というものがよくないイメージでとらえられがちだというのは、こうしたことも関係しているように思う。

 「会社社会」とも言われた日本社会であったが、しかし、いま、人々はもはや「会社」に頼って生きていくことはできないことを思い知らされている。だから、どこかの集団に属することで自分の権利や利益を守ってもらおうという「集団主義」的思考を捨てて、いまこそ「個人」として自立することが、人々には求められているはずだと思う。しかし、「集団主義」というある意味「楽なシステム」に馴れた人々は、「会社」の代わりに今度は「国」という集団に頼ろうとしているように見える。そうして「集団主義」の「集団」が「国」というレベルに収斂していったなら、それは単なる「集団主義」から「全体主義」へと、質的な転化をもたらすこととなろう。そういう意味でも、いま、「個人の尊重」ということの意味とその重要性を、あらためて考えてみる必要があると思う。
                                                                (引用ここまで)


 非常に鋭い分析だと思います。これまで、私が書いてきた諸々の事がなぜそうなってしまうのかが見事に説明できます。
 要するに、「個人」としての権利・自由は確立されてはおらず、人間は「人」としてその属する集団の利益と調和する限りにおいてしか尊重されていないのに、国民の側にもそれを当然のこととして受け入れてしまう(飼いならされている)土壌がこの国にはあるのです。
 例えば、最近も、「戦後民主主義というのは、覚悟に欠ける(≒虚偽の)民主主義だ」といった趣旨の日記を書きましたが(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1992530631&owner_id=22841595&from=list_diary_title)、あれなんかも、「集団主義」というある意味「楽なシステム」に飼いならされてしまっているから、できることなら責任取らずに済ませたいという安易な方向に傾くといえます。
 あるいは、所属する社会、集団、組織の採るのと対立する見解を持ってしまうと、その人は社会不適応者とされ、簡単に精神病者に仕立て上げられて精神病院に収容され、長期間の入院生活を強いられて社会の表舞台に出てこられなくなり、事実上社会的には抹殺されたりすることも以前書きました(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981629140&owner_id=22841595&from=edit_diary_finish)。
 これは「個人」の尊厳を謳う日本国憲法第13条がある今でさえ暗黙裡に行われていることです。まして、この規定が自民党の憲法改正案のように書き改められてしまうと、さらに一層大っぴらに行われてしまう危険性があります。極端な話、社会、集団、組織と異なる意見を持つことが出来なくなるのです。これは第二次世界大戦前の日本の社会と同じです。
 こうした思想・良心の自由や表現の自由に関わることだけでなく、上記引用日記(2番目)にも示したように、らい病患者に対してこの国がかつて(というよりつい最近まで)採った態度は、生命、人体についてまで「個人」の人権を認めなかった酷い例として挙げてよいと思います。プロミンという特効薬が効くことが判明してから何と10年も経った1953年になってから、らい予防法のような悪法を制定し、患者の隔離を進めて、患者を社会の表舞台から抹殺したのです。積極的にプロミンを使用して個々の患者という「個人」を救うことよりも、その「個人」が属する社会、集団、組織の利益(たとえ治っても罹患した痕が残ってしまうらい病患者を表舞台に立たせたくない)を優先させたとしか考えれません。しかも少なからぬ国民がそれを当然のこととして受け止めかねないのがこの国の現実であろうと思われます。
 
 憲法改正というといつもほとんど9条の問題に関する議論に終始しますが、実はこの点はもっと積極的に論じられなければならないことだと思います。今の非力弱小の野党では無理でしょうが。
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