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2026年07月28日20:00

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映画『シンプル・アクシデント/偶然』

『シンプル・アクシデント/偶然』(フランス・イラン・ルクセンブルク)
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イラン政府の検閲を通過していないため、自国内では存在そのものが認められていない作品で、当然ながら自国内上映はされていない。しかし原題『It Was Just an Accident』として2025年の第78回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。監督のジャファル・パナヒは、過去作における政治批判を理由にイラン国内で2度逮捕。特に2度目は7ヶ月に及ぶ収監生活を経験している。本作はその実体験を下敷きにしているようで、不当に拘束・拷問されてきた元囚人たちが、自分を痛めつけた看守と街で偶然再会したらどうなるのかを問いかけるのが原点となる。
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冒頭、夫婦と幼い娘が乗る車内のみを固定カメラで捉えた長回し。夜道を走る車内の後部座席で、はしゃぐ娘ニルファーを父親がたしなめるが、その直後に車体に大きな衝撃が走る。どうやら野犬を轢いたらしい。「殺したの?」と娘が問うと、妊娠中の母親は「これも神様の導きなのよ」と答える。一見すると本筋とは無関係にも思えるこのプロローグは、後半で極めて重要な意味を持っていく。
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車が修理工場へ立ち寄ったことで、本作の主人公となるワヒド(ワヒド・モバシェリ)が登場。さっきの父親(エブラヒム・アジジ)と接触する。男が歩くたびに響く「キィ、キィ」という軋み音は彼の義足によるもので、その音を聴いた瞬間からワヒドの表情は凍りつく。翌日、その男を襲撃,拘束し、荒野へと連れ去るワヒド。かつて未払い賃金を要求しただけで政治犯として収監され、激しい拷問を受けた彼にとって、その義足の男こそが刑務所看守“エグバル”だと思われたからだ。
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ワヒドはその収監によって身重の妻まで失っており、ここから本作は復讐劇の様相を強める。興味深いのはその過程が妙にコミカルな空気を帯びていること。ワヒドは母親と電話で世間話をする平凡な中年男性であり、初対面時には奇妙な声色を使って正体を隠そうともする。彼は収監中、常に目隠しをされていたので“エグバル”の顔は知らない。記憶に焼き付いているのは、あの義足の軋み音だけだった。
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一方、拘束された男は「私はエグバルではない」と否定を続ける。身分証の名前も違うので、ワヒドは人違いをしている可能性もある。確証を得るため、ワヒドは同じく元囚人だった仲間たちを訪ねていく。だが彼らもまた、視覚ではなく、匂い、足の感触、声色といった断片的な身体感覚によってでしか“エグバル”の記憶を照合することができない。映像としてはなんとなく滑稽なのに、実態は拷問体験が五感そのものに焼き付いているという恐怖。暴力は肉体だけでなく、知覚そのものを書き換えてしまう。
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本作を単純な復讐劇に留めないのが、ワヒド自身の善良さにある。拘束した男の妻が破水したことを知ると、ワヒドは彼女を病院へ運び込み、治療費や祝い金までも肩代わりをする。自分の人生を破壊したのかもしれない男の家族を、結果的に救ってしまうのは、亡き妻の記憶が重なっているからなのか。
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パナヒ監督は本作をゲリラ的な撮影方法で制作しており、クランクアップ直前には警察に発見され、撮影素材の没収を要求されかけた経験がある。それも劇中に取り込まれており、職務質問した警官がワヒドに賄賂を要求し「現金がない」と返すとクレジット決済端末を差し出す場面などは、腐敗した国家権力を痛烈に風刺している。
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だが終盤になると、ユーモア部分は完全に剥ぎ落とされる。ワヒドたちは男を砂漠の木へ縛り付け自白を強要。それが復讐心によって徐々に倫理を侵食された人間の姿。たとえ男が本当に“エグバル”だとしても、彼自身もシリア内戦で片足を失った国家暴力の被害者なのだ。被害者が加害者へ変わり、正義と暴力の境界線は曖昧になっていく。
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クライマックスでテールランプに赤く照らされながら拷問される男のシーンは、冒頭の「犬を轢いた場面」と明確に呼応する。あの時、母親は「これも神様の導き」と語ったが、娘ニルファーは「パパが犬を殺した。神様なんて関係ない」と切り捨てた。本作全体を貫いているのはこの視点で、人は暴力を「運命」「正義」「神意」といった言葉で正当化するが、実際に暴力を選択しているのは常に人間自身なのだ。
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終盤、ついに男がエグバルだと認め謝罪し慈悲を乞う。その姿を前にワヒドには、自らの復讐がすでに「真実の追及」ではなく、喪失感を埋めるための儀式へ変質していたことに気付く。ラストシーンで再び響く義足の軋み音。その意味は説明されないが、あの瞬間ワヒドは更なる憎しみの連鎖に戦慄したことは間違いない。暴力によって傷付けられた者が、暴力によってしか救済へ辿り着けない矛盾と絶望を、静かながらも痛烈に訴えて本作はエンドロールとなる。このオープンエンディングは忘れることができない。
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