『ガラスの仮面』に登場する速水真澄は、冷徹な経営者ではあっても、冷酷な経営者ではない。
また、『ルパン三世 カリオストロの城』のルパンも、冷徹な犯罪者ではあっても、カリオストロ伯爵のような冷酷な人物ではない。
この二つを並べてみると、「冷徹」と「冷酷」は似ているようで、かなり違う言葉だとあらためて思う。
私の感じでは、「冷徹」な人物は、状況をよく見て、感情に流されず、必要なら厳しい判断も下す。
正当な競争の中で相手に侮られないだけの有能さを示すが、わざわざ相手を傷つけたり、恨みを買うこと自体を目的にはしない。
もちろん、結果として逆恨みされることはあるだろうが、それは本質ではない。
それに対して「冷酷」な人物は、有能であることも多いが、相手の苦痛を顧みず、自分の目的や原理を優先する。
しかもそれは、しばしば違法あるいは不正な手段を伴う。
だから敗者の側には、単なる敗北感だけでなく、強い恨みが残る。
速水真澄の場合、養父である大都芸能の創業者、いわゆる「御大」のほうには、かなり冷酷な成分があるように見える。
戦後の混乱の中で、違法な手段も辞さずにのし上がった人物として描かれているからである。
だが、その業というべきもの、あるいは恨みは、真澄本人には直接向かわない。
だからこそ真澄は、北島マヤに対して、自分自身の倫理的な屈託に深く縛られることなく(それでも紫の薔薇の人という匿名だが)向き合えるのだろう。
ここで、もう少し微妙な人物として、『カリオストロの城』の銭形警部と、『レ・ミゼラブル』のジャベール警部を比べてみたくなる。
銭形は、少なくとも「冷酷」な警察官ではない。
テレビアニメ版では笑いを取る道化的な面もあるが、宮崎駿の描く銭形にはそうした滑稽さはほとんどなく、むしろ冷徹さと有能さが際立っている。
それでもなお、彼には冷酷さがない。
追うべき相手を追うが、そのこと自体に残虐な快楽はない。
一方、ジャベールはどうか。
彼は「一度法を犯した者は、二度と真っ当な道には戻れない」という信念に従って、ジャン・バルジャンを執拗に追い続ける。
本人にとっては正義の遂行なのだろうが、読者の目から見れば、その正義はひどく冷酷に映る。
相手の変化や善性を認めず、法の名のもとに人間を固定してしまうからである。
しかもジャベールの厄介なところは、その冷酷さが他人に向かうだけでなく、自分自身にも向かっている点だろう。
最後にバルジャンの本質的な善性に触れ、自分の正義が揺らいだとき、彼はその揺らぎを抱えたまま生きることができない。
自らを罰するように破滅へ向かう。
そこに至るまで、彼は他人にも自分にも冷酷な人物として見えてしまう。
もっとも、これはカリオストロ伯爵のような、自覚的に他者を踏みにじる冷酷さとは少し違う。
伯爵の冷酷さは、もっと露骨で、支配と加虐の意志を伴っている。
ジャベールの冷酷さは、むしろ正義への過剰な忠実さが、人間への想像力を失った結果として現れている。
同じ破滅に至るとしても、観客や読者に残す印象がかなり違うのは、そのためだろう。
「冷徹」と「冷酷」は、似た顔をしていても、かなり違う。
前者は能力や判断の厳しさに関わるが、後者は他者への想像力の欠如、あるいは苦痛への無感覚さに近いのかもしれない。
そう考えると、物語の人物を見る目も、少し変わってくる。
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