『私たちが光と想うすべて』(フランス・インド・オランダ・ルクセンブルク)
短編ドキュメンタリーで実績のムンバイ出身女性監督パヤル・カパーリヤーによる初長編。インド映画の既成イメージを覆す静謐で政治的な作品は、語られない沈黙の重みを通してインド社会の矛盾を炙り出す。2024年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞(最高賞パルム・ドールは『ANORA アノーラ』)で話題となり、地味で実験的な作風ゆえに興行リスクが懸念され日本公開は遅れたが、渋谷のBunkamuraル・シネマでは連日満席に近い盛況ぶりだった。この勢いで同監督の初長編ドキュメンタリー『何も知らない夜』の併映も始まったので鑑賞すると、不鮮明なモノクロ映像と抽象的なモノローグから始まり、やがて政府に抗議するデモと弾圧の現場を赤裸々にして国家の闇を訴えていた。その延長線上で『私たちが光と想うすべて』を観ると、冒頭のムンバイのスラム街描写が、フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にしたような世界に誘い込まれる。
異臭が漂いそうな雑踏にまみれたスラム街で働く人々の風景、雨季が長くじめっとした空気感に支配されるムンバイ。世界人口密度5位の都市には他国企業が次々と拠点進出してITビジネスの急成長を担う。だがその裏側で庶民の生活を益々旧態依然へと追いやる様子が、冒頭の市民インタビューで表現される。「20年以上住んでいるがここは故郷とは呼べない」「ここで暮らすには無情に慣れることだ」「いつかは追い出される」
やがて女性視線の先へ画面はスライドし、対向車線の電車と駅の風景に続いて、看護師として働く主人公の姿がガラス越しに映る。インドのジェンダーギャップは世界ランキング129位(日本は118位)。そこにはカースト制度の名残と政治革命、多宗教性による価値観の相違、そして慢性的な貧困が絡んでいる。近代インドの男尊女卑社会のリアルを描くため、ボリウッドのエンタメ表現と対極を感じる演出は保守的思想、風習、機微な現実を静かに訴え、光と闇、希望と絶望が絡み合う登場人物達の内面描写が心を揺さぶる。
ムンバイで看護師として働くプラバ(カニ・クスルティ)、同僚でルームメイトのアヌ(ディヴィヤ・プラバ)、そして食堂で働くパルヴァティ(チャヤ・カダム)。彼女たちの人生はカースト制度の残滓、宗教対立、貧困、ジェンダー格差といったインド社会の矛盾と密接に結びつく。だがそれを抵抗の象徴にはせず、生身の生活を繊細に描くのが本作の骨子。
寡黙で真面目なプラバと、毎日を楽しむ生活を望むアヌは性格的に正反対。消費癖が過ぎるアヌが家賃の滞納を相談すれば「今月だけよ」と釘を刺しながらプラバが立て替える。それに甘んじるアヌに反省の気配はない。実は彼女はイスラム教徒の青年と交際していた。信仰の異なる(アヌは多数派のヒンドゥー教徒)男女の恋愛は許されないのが暗黙の常識。だがアヌの大胆な行動は目撃者も多く、同僚たちの間でも既に噂になっていた。
一方のプラバは親が決めた知らない相手と結婚していたが、夫は稼げる仕事をするためドイツに赴任したきり1年以上も音信不通。職場にいる既婚医師のマノージ(アジーズ・ネドゥマンガード)の好意的なアプローチに心が揺れるプラバ。そんな時、彼女宛てにドイツ製の炊飯器が届く。説明はないが夫からの贈り物なのだろう。プラバがそれを抱きしめる場面は短いカットながら、やり場がなく息苦しい様子に胸を打たれる。彼女の心情が見えないが、想像としてはマノージへの自分の気持ちを、音信不通の夫に見透かされたように感じているのか。
この作品の登場人物は心情をあまり台詞には出さず、派手な演出や直接的な対立を排して、細かい仕草や会話から「不条理な関係性」を浮かび上がらせる。特にプラバの心情は複雑で、働く姿や同僚、異性との微妙な距離感、時にはその眼差しから、沈黙の奥にある揺らぎを読み取る手段を求められる。
パルヴァティが都市再開発で自宅からの立ち退きを迫られた。夫に先立たれている彼女は自宅の権利書すら見つけられないため、故郷の実家に帰り独りで生きていくことを決意する。「階級は特権です。豊かな暮らしを」という建設業者の看板に石を投げつける場面が印象的で、プラバとアヌはパルヴァティを見送るため、大都会ムンバイからマハーラーシュトラ州にある海岸沿いのラトナギリ村まで小旅行に出掛ける。パルヴァティの実家に残っていたウイスキーを回し飲みしながら、古いボリウッド曲をバックにフラフラと踊り出す姿に、彼女たちの束の間の解放感が伝わる。
アヌとイスラム恋人のシアーズ(リトゥ・ハールーン)の繰り返されるキスシーンや濡れ場の挿入は、自国の映倫検閲を意識したインド映画では珍しく挑発的。本作が本国でどこまで自由に上映できたのかには興味が沸く。海岸に打ち上げられた遭難男性をプラバが救急介護を施して命を助けるのだが、最初はアヌとシアーズの無理心中ではないかというミスリードを誘う。
パヤル・カパーリヤー監督は「インドにおいて愛は極めて政治的」と言っている。それに逆らうアヌの自由恋愛と、対照的に古いしきたりを重んじる一族によって結婚相手を決められたプラバ。同じインド映画『花嫁はどこへ?』(2024年)を例にするまでもなく、親が結婚相手を決めるのがごく普通の国なので、カーストや宗教問題を背景に生きる低所得者には、誰と人生を共にするかを“愛”で決めることはリスクなのだ。その葛藤がクライマックスのプラバと夫の幻想的な再会で表現される。この場面は唐突な転調で始まるため一瞬戸惑うのだが、むしろここでプラバは「あなたは私の夫ではない」と断言することで、他者が決めた人生から解放されたことになる。
豊かな人生を求めてムンバイに来たプラバは、ラトナギリでの幻想次元を通じて自由の可能性を模索する。小さな村で起きたいくつかの出来事は、パルヴァティの今後、アヌの異教徒恋愛、そしてプラバの夫との関係という解決されない問題を抱えたままでラストシーンを迎える。夜空の星と電飾に照らされたオープンバーでの祝杯は、生き抜こうとする気持ちの強さの象徴と感じた。プラバがガネーシャ祭で独白した「ムンバイは幻想の街。幻想を信じないこと。そうしないと気が変になる。」という言葉が、作品全体を貫く痛切な真実となって響いてくる。「生き延びることそのものが抵抗」という静かな宣言が余韻を残す。
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