奇跡講座のおかしな説明についての感想
また、別の説明では次のように考えることができるかもしれません。
形而上の解離によって、
神や聖霊を忘却しているという
自我は
その神に対し恐怖したり、怒りの神として対象化して捏造したりするのは
説明として矛盾していることになります。
では、
いったい誰が罪悪感うんぬんといっているのでしょう。形而上の自我でも、また聖霊でももちろんありませんよね。
それを誤解してしまっているのは形而上の決断する主体のレベル
でということになります。
そこに誤解があります。
したがって、
「私は神から分離しており、怒りの神を想定して困っています」
という奇跡講座の形而上の自我の力動のこの部分は、どこにないことになるのです。
解離して忘却してしまっている大自我は
不自然な状態です。
自らを好奇心と苦しみの存在として感じています。
そして
日常生活の私たちは
、その誤創造主である形而上の大自我を
ワクワクの特別の愛と苦しみ(憎しみそして怒り)
の創造主として信仰するのです。
しかし
その私たちの恐れというのは
奇跡講座の形而上の解離前の神(ナチュラルスピリット)にたいするものなどではなく、
形而上の大自我自身との同調
というほうが正確な説明であるといえるのではないですか?
神(ナチュラルスピリット)への罪という発想というのは、飛躍しており矛盾した説明であるといえます。なぜならば、
この世界の宗教のその神は
ナチュラルスピリットではなくて形而上の大自我のはずだからです。
したがって、
形而上の大自我が抱くのは
自らの特別性の好奇心と苦しみ、憎しみ、怒り
であり
じつは 神への恐れ、については
ただひとつであり
みずからは存在しないのでは
ということだけなのです(さいごの神への平安の障害といわれている)
わたくしがいいたいのは、
解離させられている自我(しかも忘却)のほうが
罪悪感を抱いていますというおかしな説明
はあまりにも
おかしいということです。
決断している主体がいるのですから、責任を感じているのは決断する主体のはずですからね。
そして、決断する主体は、たんなる選択の存在ですから、罪悪感を抱くほど深刻ではないはずなのです。
したがって、
自我が神
(ナチュラルスピリット)に罪悪感を抱いてます
という飛躍してしまった説明はおかしいのであり
スピリチュアルの探求者におかしな妙な誤解(恐れ)を与えることになるのです。
これがわたくしの感想ですね。
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