ノンデュアリティ(非二元)とはすなわち実在とは 在るがままという自然な直観である(神秘的な超自然的な直観のことではない)心身という幻想が脱落するのは自然なことであるいまここ すでに在るゆえ無努力である神秘主義ではない修行によるものではない努
今日のできごと(夢の中のストーリー)今日も午前に、千早(ちはや)川沿いに住むお客様の送迎をしてきました。午前の仕事がおわり帰りにTSUTAYAにレンタルしていた映画を返却してきました。レジェンドアンドバタフライという映画はまだ貸出中でした。なので
ナチュラルノンデュアリティ(真の福音)すなわち幻想のすべては実在レベル(ナチュラルスピリット)の好奇と反省の反映でしかないのである(反省とは、神の好奇による空想の試みの愚かさについての、神の悟りである)まず完全平和であったそして神の空想の試
空性としての生成、存続、消滅は空想エネルギー自体の有る願望(好奇による)と無い願望(アンナチュラルな苦であるゆえの自我主体からの解脱願望)によるつまり空性エネルギーの生起と存続(恒常)と消滅は幻のごとくであるといわれる六十頌如理論の第一偈に
自我は対象観念において(自身についてもであるが)何かについてそれは有るそれは無いと妄想するしかしながら、六十頌如理論 第4偈においてこの生存からは、有によって解脱することはなく、無によっても解脱しないと説かれるなぜならばこの生存(空性)は源
般若波羅蜜とは無分別智である(ナチュラルスピリットみたいなもの)般若波羅蜜は色受想行識をみない法をみないつまり、心による主体、客体という見方をしない般若波羅蜜により空性がみられるそして戯論は寂滅する戯論(もし個があったらという空想)つぎに思
煩悩と離欲 も幻想である(参考文献 ナーガールジュナ研究 瓜生津 著 第2章 六十頌如理論)煩悩とは、誤って対象をとらえるところから生じる(根源的には、ナチュラルスピリットの好奇が個という空想対象を、主体化催眠つまり実在的にとらえることから
素人の新説、世俗諦(12因縁)まとめ煩悩(実在である、ただ在るナチュラルスピリットの好奇が発端)が依所(空想の心)としてつかまなければ[主体化催眠にしなければ自我エネルギーはうまれることはなく]識もなく魂やシナリオ(考案)もない六処入(意識や
真の涅槃この日常世界では生起と消滅が幻のようにあるそれと同様に形而上学的な概念においても自我の生成と消滅としての涅槃があるとする当然、形而上学的な概念であるこの生成と消滅もこの世界の生起と消滅とおなじく幻のなかのエネルギー状態の説明なのであ
たとえば聖霊はノーマインドの記憶ですので主体以前に本体がありますそれを主体が選択する(客体とする)と説くとおかしなことになります(愛着、自我の特別の関係としての聖霊と成りますそして愛着が真理だと錯覚することとなります)これをべつの表現で説明
ナチュラルノンデュアリティとは自己(ここでは主体という意味)、および、世界を対象化している分別をいやしている無分別智(すでにただ在る)なのであり、分別を幻としりそれに執着することなく恐怖や愛着(好奇心)を起こすことなくそれらを癒していること
仏教書の感想わたくしは龍樹が王にたいして説いた十地という途方もなく長々とした菩薩への境地に関心はありませんが龍樹の縁起については関心がありますそのまま信じるわけではありませんが。龍樹が寄って立つ、龍樹がうまれる前に興隆していた大乗経典は説一
鑑賞させていただいた映画(TSUTAYAにてレンタル)日本映画 「八犬伝」(2024年)主演 役所広司内野聖陽土屋太鳳渡邊圭祐鈴木仁板垣李光人栗山千明磯村勇斗立川談春黒木華寺島しのぶほか最期の八ヶ月の共同作業と四ツ谷怪談(奈落での対話)との対比がよか
無明とはなにか無明とは基盤ではない状態のことである(実在である基盤はナチュラルスピリットである)無明のあと縁起がおきてゆくことになるしたがって無明は縁起をしらないこと「ではない」(この説は矛盾している)このまちがった説をとく仏教のある一派は
空とはなにか空(くう、空想)は有るのでも、無いのでもない空想は実在ではないし、エネルギーが無い状態でもない、夢としてのエネルギー状態である空はナチュラルスピリット(実在)からの空想エネルギーであり、仮であり有るのでも無いのでもないか
(本日湧いたノンデュアリティ感想)真のナチュラルノンデュアリティとは幻想として生じた自我を信じ込んでいるときそれを投影した無常のこの世界をみる無常であり非実在である者が無常の夢をみるのであるそうではなくナチュラルにいやされているとき在るがま
図書館で借りている今読書している仏教の解説本によると、(仏滅後に弟子にまとめられた阿含経典からさらに体系化されたアビダルマの本である。ちなみに、今よんでいる本は南伝仏教のアビダンマではなく北伝仏教のガンダーラ(カシミール)で発展したアビダル
時を要しない真実在たとえばブッダが愚かな行為(苦行)をやめ世界を空(仮の12因縁)とみて菩提樹下で目覚めたとしようそして仏陀はすぐ教えはじめたとしようここで疑問におもうことになるのは真実とは何かに気づいてそのための修行をはじめたわけではなく
ノンデュアリティ試論最近、禅の本を図書館でかりてよんだが、不二一元を提唱しているにもかかわらず宇宙や地球は一元のあらわれですばらしいなどという、マーヤーによる生命をたたえて、慈善もすすめているこれは純粋一元(無条件 在るがまま)ではないとい
ナチュラルではない空想(好奇、不自然)を現実化することは空想された個を行為者という催眠として自我と成ることであるその行為者(形而上の大自我)自体がカルマ主であり好奇であり苦しみの幻想の存在である彼は催眠(独房)のなかにおいてさらに妄想(投影