(付記)NHK連続テレビ小説あんぱんテレビ放送終了しました。(スマホアプリで全話鑑賞していました。ドラマありがとうございました。)この作品は映画ちはやふるに縁する龍田大社で、大学のころ、神社の境内でアンパンを食べていたことをおもいだした作品で
「ツレがうつになりまして。」(2011年 日本映画)参照Wikipediaより作品監督 佐々部 清(山口県出身 2020年山口県にて没)バーニングプロダクション(代表 周防氏)傘下の芸能事務所へ所属しておられたそうです。彼の他の監督作品に、「夕凪の街、桜の
ナチュラルスピリット(実在)に含まれる好奇による特別性の空想からの自我催眠(I AM)や魂と対象世界(多次元の心身)というこれら幻の性質とは好奇であり苦しみであるつまり不自然である空想という幻には、原因があり、無常であり、遍満せず、運動であり、
本日のノンデュアリティメッセージ世界の特異点(特別性の催眠)である私(I AM)は幻想でありその分裂である魂も幻想であるそして魂が経験する多次元の心身の世界もまた幻想なのである「出発点」である私が幻想であるため努力は幻想であり、手段も幻想であり
不思議な夢の中のストーリー今年の車の車検のとき待ち時間で近くの古本屋で漫画を買ったそれはシリーズものだがなにげなくコミックシリーズの中かや一冊だけを懐かしくて買った昔、週刊誌で読んだことがある漫画だったから懐かしかったのだだが、机の下に買っ
鑑賞させていただいた映画「レジェンド&バタフライ」(織田信長と帰蝶)(2023年 日本映画)監督 大友啓史脚本 古沢良太俳優木村拓也綾瀬はるかほかメッセージありがとうございます
本日のノンデュアリティ(ナチュラル)の湧いた言葉心の本性は不生不滅であるつまり心というエネルギー(性質)は幻想ですが、心の本性は不生不滅の存在であるという意味ですナチュラルスピリットにもっとも近いエネルギーが心であり心が身体や宇宙をつくりだ
今よんでるのは上座部仏教の思想形成についての本です初期仏教のあと部派仏教の時期がきてそこから そのうちの上座仏教がスリランカに伝わりますその上座部のうち上座部大寺派が生き残り(大乗仏教を否定した派)やがて東南アジア地域一帯にそれが広まります
原始仏教の読書ほんとうの自己は 対象になりえないため自己とは何なのかという質問にはベーダの賢者やブッダは沈黙するほんとうの自己は対象になりえないので幻想のマインドで言語表現化することは不可能なのである
マインドの影響はこれまでに葛藤してきた記憶より生ずる記憶の根源は「私」である「私」という想念(努力)そしてその維持は今ではない私という記憶(マインド)は条件(努力)反射をもたらすその行動は荒々しく(微細であれ粗大でれ)今ではない対象という偽
キリストのヨーガ8章までよんでみましたがとくにそれまでとちがった内容はかいておりませんでしたこの本は実在は愛といってるのでわたくしのナチュラルノンデュアリティとはちがいますそれにこの本は形而上学はのべておらず小さな我やそれにまつわる心理活動
読書感想キリストのヨーガ 出帆新社M・マクドナルド・ベインまだ読書途中ですが(5章までよんでます)内容はキリストのヨーガとは常在の今のことである心の中にしか、時間(過去、未来)はなくあらゆる想念は幻想である神(ナチュラルスピリット)以外の差
仏教の本をよんでますが五蘊仮和合により自我という錯覚がおきるとかいてますが?(違和感)ですそもそも無明行つまり根本存在に無知(12因縁という幻想をしらないという無知ではないことに注意 それは堂々めぐりになるだけ)のため行為者という自我信念がす
鏡の法則とそれの終焉ナチュラルスピリットにより鏡の作者の作成(主体化催眠)鏡(スクリーンに投影)そしていやしとは鏡の作者とそれを写す鏡の両方が実在しないということである鏡の作者や鏡の内容という両者はともに好奇心であり苦しみという想像の産物で
補足体外離脱 的説明ちなみに魂の外側イコール スクリーンというわけではありません魂の外側(対象)の「中に」スクリーンがあります(複合映画施設のシネマコンプレックスみたいに、たくさんあります。)フォーカスしているスクリーンを顕在意識といいます
かんたん形而上学的仮説^_^私はいないとは活動性がないということ何もおきていないということそれが静寂(ただ在る 平和)いわゆる今ここは思考、感情、五感を感じるスクリーンみたいなものであるがスクリーンをみている者がいるそれが魂(としての私)魂は