ナチュラルノンデュアリティ(自然に在ること)現在は自然、純粋、実在です私は静寂に帰ろう(成ろう)は催眠です今が実在という真実こそが幻や催眠(私以降の活動)をアンリアルなものとしていやすのです偽りの目標があいまいなのはそしてそもそもそれを目指
ナチュラルノンデュアリティのことば(自力も他力も幻想です)自も他も幻想だから自力も他力(神への他力も)幻想ですあるがままが実在していますこの避けられない即時性(実存 今)というすでにただ在ることのなかで幻想の動き(最後の人生)は障害ではなく
宇宙の消滅自らのハートという緊張は解けあるがままが実在としてあらわれる共時性(シンクロニシティ)はIAM(活動性)の影響のもとにあるものとしてハート(活動性)、そして劇とともに終焉するハートという偽りの原因(空想という活動性を主体化現実したも
私はいないとはただ自然であることですのんびりリラックスがおきているとき心だのモノだのと主張しませんそのふつうの意識が普遍の意識に通じているのです
私はいないとはただ自然であることですのんびりリラックスがおきているとき心だのモノだのと主張しませんそのふつうの意識が普遍の意識に通じているのです
意図について意図的であるということが自我の正体であるそれはあるがまま(のレベルのサブ性質である好奇であり不自然さ)から たちあらわれるそれにもとづいて創作の状態がうまれるそれが幻想世界である実践者(自我 行為者 空想という努力を主体化現実に
二元性(多重性)の催眠の正体とはそれはじつは同じ催眠作用の性質つまり努力という空想を主体化現実にしたをくりかえしている状態なのですどういうことかというとナチュラルスピリットからの大自我の発生もそうですし、魂というのも、大自我にとってはまた対
平安 今 存在意識が実在を示すメッセージです努力して気づいている状態は意識(客体意識)の範疇にありますそこにはさまざまな幻想レベルがあります(ナチュラルノンデュアリティの形而上学ノートなどを参考)さまざまな今は催眠作用(努力という空想を主体
気づきについてまず第一にすでに今であるといういしきがありますもしそれを否定することがおきているとき(催眠作用)私は努力を捨てなければならないと努力しますそれは私(主体 行為者)を現実化しているのであり努力(空想)を現実とした状態である催眠つ
わたくしのノンデュアリティについての形而上学の仮説をインドの非二元や仏教とくらべとみると次のようなことを述べることができる仏教の非想非非想処とは想念(マインド 主体化)になりかけの状態をあらわすつまり想念(マインド)でもまだ想念(マインド)
自然のなかのオートマチックの終焉今は努力は実在しない私というエネルギーは幻想でしかなく自動的に現れ、終焉する努力以前から存在である今は自然統一でありそれは無努力で永遠にいつもある自然瞑想(統一)であるサハジャ瞑想である
欲はただ存在するレベルとともにあるサブ性質である好奇であり不自然さという性質からおきると形而上学において仮説いたしましたしたがって実在レベルのサブ性質(ワクワク)から空想された個がおきさらに空想の個には自律(自己原因)という主体化催眠がおき
ノンデュアリティメッセージ真の統合とは実在レベルの在るがままの平安とともにあることですそれがサブ性質(好奇であり不自然さ)のほんらいの宿命でありますより多くの、そしてより新しい視点を求めるのは自我なのです自我は視点というものをとおし、世界を
ノンデュアリティによる癒しマインドは対象意識をつくり投影する投影には肯定的な投影(好奇心からの誤創造を楽しむ)と否定的な投影(自我という不自然さの苦しみ 憎しみの投影 つまり抑圧、抵抗、防衛、否認によるもの)がある否定的な投影には、黄金のシ
ノンデュアリティの形而上学の説明(自然精神統一)在るがままではない特別性である自我(主体化催眠)は、好奇心により、様々な誤創造(投影)したものを求めますあるいは自我自体の闇(不自然さ)を抑圧して意識から遮断するために投影しつづけて(これも存
一般的な心理療法においての子が親に対する怒りというのは子は親に守られてもいるため子はその意識問題を抑圧(否認)し投影していることになります(学校でのいじめなど)他者への怒りの投影ですもしくはより巧妙に他者(先生や同級生)が自分に対して怒って
ノンデュアリティ形而上学のくわしい説明ノンデュアリティの間違った説明の例存在意識がその一部によってモチベーション(動機、ワクワク)の活動を観照し癒すという間違った説明についてのべるまず一元論のスピリチュアルにおいては好奇心は一元から
偽りの神(大自我)のノンデュアリティそれは恵みと苦しみを与える(そうして多次元の世界を投影する)自らが有限であるため分裂した魂たちも投影された多次元のボディも何かを求めてしまうそして偽りのものを代わりに互いに与えるしかし実在は与えあうことは
偽りの成長と癒しの正体(形而上学仮説)実在は、素朴な平安であるそれは偽りの自我や何かを探している意識ではない実在のなかに、サブ性質として好奇があったそれは無意味(空想)の源でありバランス(好奇であり不自然)によりいまだ実在にとどまっていたし
幻想世界の終焉のために神(ナチュラル)からの分離の現実化すなわちリアルにみえる不自然な夢の活動は実際にはおきていないように感じるこれがナチュラルノンデュアリティの癒しの反映であるつまり不自然な幻想の投影である多次元の世界の活動はすべて実際に
自然のなかのオートマチックの終焉実在は経験、体験ではない在るがままでありその反映が平安である最後の人生では行為は起こりつづけるようにみえるが、みずからは癒しにより無為にとどまるようになる
自然精神統一とは石や植物は動物はじぶんで崇高な概念をつかめませんしかし人間は真の自己、神とか普遍的な概念を信仰することにより五感への執着を南無阿弥陀とかの信仰に変えることことができますそしてその普遍的概念を信仰する力にもどるとたとえば不動尊
教えや癒しがおこることについて教えみたいなのは実在からの恩寵です その教えを聞く機会があれば実在(ただ在る)ことがおこる(比喩で、ほんとうは おこるようにみえることから影響をうけなくなる)ことによる平安がもたらされるのだとおもいますそれ、
サーンキアカーリカ(インド サーンキア哲学古典)()はわたくしによる補足、解釈です第62偈 真実義についてプルシャという実在は 束縛されないし、解脱しないプラクリティ(実在のワクワクというサブ性質)が、流出転変により束縛されてそして解脱する第
サーンキアカーリカ第38から45偈までの略説()はわたくしの補足。おもに輪廻と解脱についてプルシャとプラクリティ(ワクワク性質)という実在のうちプラクリティからマハット(宇宙我、宇宙意識が生じる)つぎにアハンカーラ(個的意識)が生じるサーンキア
主人公の仮想世界での与えられた背中のディスクは仮想世界での活動をするためのスピリチュアルでいう魂ようなものですねそこに虚構のゲームのデータが入出力される仕組みになっているようです仮想世界のバトルスタジアムの生き残りのゲームの花火のシーンをみ
サーンキアカーリカ第24偈から第37偈まで我執(個に関連づけて理解する働き アハンカーラ)そして、意という根(能分別 マナス)五知根(五感)五作根(運動器官)について語られているマハット(統覚、覚知)やアハンカーラやマナスは五感、運動器官を対境
サーンキア哲学の古典である「サーンキアカーリカ」の70偈をよみはじめているサーンキア哲学研究のこの本ではガウダパーダバーシャの註釈書でおもに解説がなされている。この本の著者が指摘しているように、第18偈の内容(プルシャは多である)は誤りであると