『花嫁はどこへ?』(インド)
いくらベールで顔が見えないとはいえ、結婚式当日に自分の花嫁を取り違えるなんて無理があり過ぎると思った予告編。大安吉日に新郎新婦が何組も乗り合わせる満員列車で、片側5人掛け向かい合わせの長椅子ボックス席に鮨詰め状態に乗客が詰め込まれ、他人同志が肩を擦らせながら駅に着くたびに乗り降りで入れ替わる。その都度に客達が席を詰めて奥にズレるので座る位置が変わる。居眠りで自分の降車駅に気付くのが遅れ慌てた花婿が、花嫁の手を掴んで列車から下車する。間違われた側の花嫁の不可解挙動が伏線となるのだが、とりあえず予告編での違和感はここまででおおよそ払しょくされる。

どの新婦も同じ衣装とベールを身に付ける没個性な景色は過剰演出にも思えるが、今から約20年前のインドにおける女性の主張が抑圧されていることを形容する演出にも思われた。実際この作品は女性の尊厳にフォーカスしていく展開が待っているので、冒頭で「ベールを被ったら、前ではなく下を見て歩きなさい」と花嫁が母親から注意される場面は、女性の物理的視野を奪うだけでなく、世間を知る必要性を否定され、他人の興味をも遮断して閉じ込めるという家父長制に虐げられる女性の象徴に繋がっている。

アーミル・カーンが製作に携わる作品群はもはやインド映画の王道と言っても過言ではないメジャーブランドだが、長年に渡ってボリウッドの多様性拡散に貢献してきたパワーは最近やや低下した気もする。それを尻目に『RRR』を筆頭としたアクションスペクタクルへ回帰した印象の昨今のインド映画に対し、今作は久々感のあるハートフルコメディというテイスト。新鋭若手俳優たちの活き活きとした立ち振る舞いを魅せてくれるのも楽しい。だがそこにインド独特の風習をチクリと刺すメッセージ性を必ず折り込むアーミル・カーンによって、カースト制度、貧困格差、ディサビリティ、異宗教調和などを盛り込んできた作品群に続く本作のコンセプトは「女性の尊厳」。時代が変化しても残り続けるインドの男尊女卑社会に一石を投じる。

2001年のインド。田舎町で土地のしきたりに従じて花嫁宅で結婚式を挙げたプール(ニターンシー・ゴーエル)は、バイクと船と車と列車をはるばる乗り継いで花婿デューパク(スパルシュ・シュリーワースタウ)の実家に嫁いでいく道中。その日は大安吉日のため列車内は花嫁衣裳の新郎新婦が何組も乗り合わせた。赤いベールを目深に被るため花嫁たちの顔は見えないが、ディーパクはプールの手をしっかりと握り、地元のムルティ駅で列車を降りて迎えにきた仲間達と合流した。だが花嫁の到着を親族総出で待っていた実家で赤いベールを外したそこには、プールとはまったく別人の女性の顔があった。列車を降りる時に花嫁を取り違えたことに気付いたディーパクは、焦りながらプールを探しに駅まで戻るが彼女の姿はない。取り違えた他人の花嫁は自分をプシュパと名乗るが、それ以上を語ろうとしない。とりあえず彼女はディーパクの実家に泊まることになる。

その頃、何駅も離れたパティラ駅ではディーパクとはぐれたプールが孤立状態になっていた。近くで「花嫁がいない」と騒いでいる男がいたのだが、その横暴な振る舞いが恐くて近寄る気にはなれず、路頭に迷うプールに声をかけたのは駅に住み着く青年チョトゥ。彼は翌朝、駅の事務所にプールを連れていくのだが、ディーパクに頼りきりだったプールは住所も電話番号も答えられず、夫の実家の街名すら思い出せない。「たしか何かの花の名前だったんだけど」。それでは探しようがないだろうと駅長に呆れられるプールは、ディーパクから警察は怖いと教えられていたため捜索届けを出すのも断わってしまう。チョトゥに紹介された駅前で飲食屋台を営む女将マンジュ(チャヤ・カダム)にも世間知らずを呆れられるが、新妻はベールで顔を覆い夫以外の男とは目も合わせてはいけないのが良き妻の常識。自分の意志や要望を主張してはいけないと教育されてきたプールが世間知らずなのはある意味あたり前なのだ。マンジュの方がインドの女性としては非常識。

一方のディーパクは他人の花嫁プシュパを地元のムルティ警察署に連れて行く。実は彼女こそパティラ駅で花嫁を探していた男プラディーブが夫であり、本名はジャヤ(プラティバー・ランター)なのだが、何故か偽名を使い夫の名前も答えない。マノハル警部補(ラヴィ・キシャン)は部下にプシュパの顔写真を撮るように命令するが拒まれたため、何か犯罪に絡んでいるのではという疑いを持ち始める。当時のインドでは花嫁が持参財と夫の金品、装飾を持ち逃げする花嫁詐欺が横行していた。

プシュパを名乗るジャヤは、ひとりで寺院に行くと言って街で装飾品の買取りをしたり、銀行でなにやら金を振り込む手続きも行っている。それを尾行をしていたマノハルは、彼女が詐欺犯であると断定し逮捕に踏みきる。ジャヤの正体は何者なのか、そしてパティラ駅から身動きがとれないプールは、ディーパクの元に帰ることができるのか。

プールを演じるニターンシー・ゴーエルは、まだ表情があどけなく花嫁というには幼過ぎる感じ。それもそのはず今年で17歳という若さながら、子役時代から演技キャリアがあるというベテランだった。その顔立ちは物語的にも効果を発揮していて、ディーパクに言われた「泥棒は怖いが、警察はもっと怖い」という言葉を鵜呑みにして警察行きを拒絶。料理に慢心してマンジュに虚勢を張る態度など、世間知らずの生娘っぽさが滲み出ていて愛らしい。夫の家が判らないのなら自分の実家に帰ればいいとマンジュに言われるが「帰る時は夫と一緒じゃないと、ちゃんとした女性と思われない」という理屈で拒絶するプール。彼女には主体性も自主性もなく、一族の世間体を自分の運命より優先するスタンスに唖然となる。

だが当時のインドの女性としてはこれが普通。劇中では語られないがディーパクとの結婚経緯も、本人の意志ではなくカースト制度と一族の面子に従った家系同志の合意であろうことは明白。でもそれが必ずしも不幸ということではなく、プール本人もそれが「当たり前」という概念で疑いを持たない最良の人生として受け入れているのだから幸せなのだろう。だがそれを「まぬけなのは恥ではないが、まぬけを知らずに自慢するのは恥」と比喩するマンジュの歯に衣着せぬ物言いは、プールにとって初めて出会った独立した人生を歩む女性。夫に言われた、親に言われた、世間に言われたという他者依存の生き方しか知らないプールは、マンジュと寝食を共にして“自分で考えた言葉”を他者に伝えることを学んでいく。母親から伝授された手作り菓子カラカンドを屋台で売ったことでプールは人生で初めての給料を貰う。この時の彼女の笑顔は値千金で、それまでの「当たり前」の概念が揺らぐ場面となる。クライマックスに向けて自分の意志を持つ人間に変化していくプールが輝きだす変化は本作の大きな見どころ。

もうひとりの花嫁ジャヤを演じるプラティバー・ランターは本作が映画初出演というプロフィール。陰のある謎めいた花嫁という暗い様相に陥り兼ねない役柄を、ポジティヴながらもミステリアスな部分をスポイルしない絶妙のバランスで演じている。農業を営む決して裕福とは言えないディーパクの実家で、害虫対策での農薬散布を制止し、当時の常識とは異なる有機農法を提案する行動力は、自己主張が皆無のプールとは対照的。お互いの立場を優先してマウントを取り合う母親、祖母、義姉というディーパク一家の女性陣が、聡明で自由に振る舞うジャヤに感化されていく展開は、家族における女性の地位を当事者が保守的にしているインドの旧態依然とした習慣に対するアンチテーゼとなり、家族→地域→国へと繋がっていくインドにおける女性の社会進出への道程を担う。

誰からも褒められたことがなかった料理や絵の才能をジャヤが賞賛しただけで、周りの女性たちの生活にはみるみる潤いが溢れる。生き方の多様性を無意識に封印している古来インドの女性として異端なる存在のジャヤの言動が後半のポイントとなる。人生に夢を持っていても周りからそれを全て否定され、それがインドの常識とされてどうすることもできない生い立ち。ジャヤの結婚は暴力支配や持参財(ダウリー)問題までをも絡む辛辣な事情が絡んでいることが明らかになる。ヘナタトゥーと呼ばれる妻の肌へ直接、夫の名前を描き込む装飾習慣は、女性が男性の所有物になっていることの象徴であり、典型的な男尊女卑がインドでは常識として崇拝されていることを痛烈に語る。

ジャヤの夫プラディーブは2度目の結婚なのだが1度目の妻は焼死している。これは当時インドで実際に多発していた持参財を払えなくなった用無しの妻が夫に燃やされるという残酷な社会問題を風刺している。女性は自分の進む道を決める権利を持ない国で、偶然発生した花嫁取り違え事件は、ジャヤにとってそれを覆す最大最後のチャンス。こうしてインドの常識を非常識にする挑戦が始まっていく。深夜にディーパク家から抜け出して街から去ろうとするジャヤは、泥酔して帰宅してきたディーパクと鉢合わせしてしまう。彼が寝言で泣きながらプールの名前を呟く姿を見て、ジャヤは街から出ていくのを諦めてある決意をする。

だがジャヤは翌日マノハル警部補に逮捕されてしまう。マノハルは警察に相談事を持ってくる市民に賄賂を要求する金の亡者で、その高慢な態度はいかにも片田舎の独裁者といういで立ち。権力を行使して金品を巻き上げる最低男なのだが、アーミル・カーンのインタビューによれば、当初はこのマノハル役を自ら演じることを検討していたらしい。この警部補はラストでサプライズをやってのける隠し玉なので成るほどとも思いつつ、もしアーミル・カーンが演じていたら作劇的効果は半減していたかもしれず、愚劣な風貌が印象的なラヴィ・キシャンにキャスティングしたのは間違いなく正解だった。

本作内では劣悪な存在として描かれる男性キャラが多いが、このマノハル警部補以外には女性の自立をさりげなくフォローするディーパクとその男友達など、必ずしも男性=諸悪とはしていないところもこの作品に良心を感じる部分。対照的なふたりの花嫁が顔を合わせるのはラストのみで、出会うまでにそれぞれが、あのまま結婚していたのとはまったく異なる人生の扉を開き、これからの生き方にお互い異なる夢と希望を抱くことができる大団円。爽やかな涙とともに自分が浄化された気分で映画館を出ることができる秀作だった。尚、監督のキラン・ラオはアーミル・カーンの元妻だそうで、今は信頼し合える仕事仲間なのだとか。
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