曇り空ではあったけど、雨が降るまでは間がありそうだったので、二子shu-3と自転車で外に出た。
グローブやボールをデイパに入れて、
「公園でキャッチボールでもするか?」
と自転車を走らせたんだけど、shu-3は、
「ちがう、こっち」
俺の実家に向かった。
つまるところ、実家に行くと、コーラとおやつ、さらにはテレビまでが観れるからね。
やれやれ。
実家に行くと、まぁ俺の実家なわけだから、もちろん歓迎してくれる。
父はいつものように、ソファに座ってテレビをみていた。
歳をとり、ずいぶん柔和になったと感じる。
おじいちゃんになるとは、こういうことか。
いつも座ってテレビをみているだけでなく、もう少し活動的になった方が・・・というのは、余計なお世話かもしれない。
でも、声をかけてみた。
「ちょっと外に散歩でも行ってみない?」
「あぁ、行っといで」
「いや、お父さんと」
「わたしか?いいよ。外、着替えないといけないからな」
歳をとると、あんまり気がつかないが、部屋着だったらしい。
この場合の「いいよ」は、遠慮しとくよという意味だ。つまり、「いやだよ」ということだね。
「着替えてこればいいんじゃない?」
「いいよ(やだよ)」
父は億劫そうだ。
「すこしは動いたらいいんだけどねぇ」
何度か声をかけてみたが、父は動きそうになかった。
「じゃあさ。玄関からちょっと外に出るだけでもいいんじゃない?公園とか行くのは、坂もあってたいへんだから」
「えぇ?」
「すぐそこだから」
というと、父はようやく立ち上がり、玄関で靴を履いて外に出た。
ほんの少しだけ歩いて、周囲をみて、
「このあたりも、ぼくが子どもの頃より、木が大きくなったね」
「そうか?」
なんて言いつつ、すぐに家の中に戻る。
意味があったかどうかは、わからない。
ただ、まぁちょっといっしょに歩けただけでも悪くはないかなぁ、と思う。
食欲はあるようだし、最近やせたというか、しぼんできた感はあるが、自分で歩いてくれているし、やりとりもできるからね。
この流れでこういう話題も微妙かもしれないが、内田樹のブログをみると、最新のアップが、
「死ぬってどういうことですか」
だった。
とある国会議員から聞かれたことに、答えたそうな。
どういう意図で、国会議員氏が内田樹氏にそういう質問をしたのかはわからない。内田氏も最初はめんくらったという。
「
人間はいろいろな仕方で病んでいるけれど、最も重篤な病は「死ぬ」ということである。他の動物は「自分が死ぬ」ということを知らない。人間は自分がいつか死ぬということを勘定に入れて生きなければならない。一人一人が「自分がいつか死ぬ」ことの耐え難さを緩和するために、それぞれの物語を作らなければならない。「死について何も考えない」というのも一つの物語である。
」
そうか。
自分がいずれ死ぬということを考えられるのは、人間だけなんだね。
改めて考えて、妙に感心する。
俺はまだ50を少し超えたところで、子どもは比較的高齢でできているものだから、下の子はまだ小学生だ。
今の段階で、自分の死を考えるのは、そぐわないところもある。
ただ、老いた自分の親をみて思うところもあってさ。
自分より大きく、怖い存在だった父が、好々爺としていつもニコニコしているのをみて、あらためて時間の流れというものに気づいたのだ。
大人になると、子どもよりも変化は小さくなる。
だから、ともすると今の状態がいつまでも続くように思えてくる。
子どもは大きくなるにしても、自分やまわりの大人に、大きな変化はみられないからね。
でも、気がつくとそこで白髪が増えていたとはいえ、子どもの頃と同じように接していた父や母が、ずいぶん小さく、弱くなったように感じるようになった。
それはいずれもっと希薄になる準備でもあるのかもしれない。
そう感じたとき、今の時間はずっと続くものではないのだ、と感じるようになった。
だから、現在進行している時間というのは、大事にしたいと思うんだよね。
何かのために、待つ時間、がまんする時間、準備する時間、ではないのだ。
どこかに向かう時間ではなく、今の刹那が大事というね。
いずれどこかに向かっていくのだから、ということを実感して、かえって線ではない、点の重さを感じるというかなぁ。
俺もいずれ、父や母のように小さくなり、さらにその先、消えていくだろう。
それはべつに、怖いことでも重いことでもないように思えた。
なんか、ポエムじみた文章になってしまった。
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