武満徹"I hear the water dreaming"に寄せて
我が網膜よ
願わくば、我の鼓膜とならんことを
我が鼓膜よ
願わくば、我の網膜とならんことを
「楽曲」を聴いているのか? それとも「音響:音の響き」を聴いているのだろうか、
いや違う。
単に「聴く」ではなく、もちろん聴いているのだけど、実質は何か別な体験をしている気がする。
夢を見ている、それもちょっと違う。
「夢を聴く」あるいは「夢の中にいる」という感覚が近いのかも知れない。
夢の中、つまりは夢中。
I Hear the Water Dreaming
直訳すれば「夢見る水に耳を澄ます」
夢は視覚によらず見るもの。
その見たものを、聴覚として認識するために耳を澄ます。
それは、視覚的な音のアルバム。
そして音楽は、音の振動として鼓膜の振動のみならず、肌の触感をも通しても届くもの。
音楽、というよりも五感をフル稼働して浴びる「音空間」。
その空間にこの身を投じるために、見たものを音に変換する「網膜にして鼓膜」、
聴いたものを視覚に変換する「鼓膜にして網膜」が欲しいと切に願う。
梢をわたる風の音、都会の街路樹をステージに歌う鳥たち、潮の満ち引き、小川のせせらぎ…。
ドビュッシーと武満は、作曲家と言うより、きっと自然の翻訳家なのだ。
彼らは、自然の声を旋法や対位法、和声法に変換する過程を経ることなく、直に交感そして交歓し、さらには音楽に交換なしえた。
そして、見たもの、視覚的なイメージを音として表現することも。
きっと、彼の網膜は鼓膜であり、また鼓膜は網膜であったに違いない。
それこそ、私が心の奥底から望むもの。
彼らの音による翻訳を通して、私は世界の音を認識する。
音に溢れた世界の中から、最も純化された部分を感じ取る。
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