「彼らが進んで選んだ自らが生きている時間の中で目にした光景。それがまさにその場に立会い身をもって受けとめる光の風景であることに気づいたのはモネやピサロを始めとする印象主義の画家たちであった。
戸外の明るくきらめく光、しかも刻々と移ろいゆく光のもとでの制作。そこでは自然の中にある個々の対象を克明に描き込むよりも、画家が自然の中にあって感じ得た感覚の総体を描き進める誘惑に駆られるのは自然なことであろう。
モネの描く水蓮の池では 水蓮の花もさざめく水面も、また水際になびく木々の枝も全て横溢する光の渦に溶け込んでいるのを見ることができる。そこでは、 それぞれの事物が固有の色を備えているという前もっての知識は排され、それに当たりそこから発する光の場としてとらえられていると言えるだろう。
だが、画布は本来光を発したりそれ自身明滅するものではない。それゆえその光は混色をできるかぎり抑えた明るい絵具の色彩の差異に置き換えられて表現されているのである。それは「絵画としての光」の追求と言っても良いかも知れない。
モネが求めようとした無垢な眼、
セザンヌが「いくら従順になってもなりすぎることはない」と言った自然への態度、
「ぼくは、もはや自分で自分を意識しない。絵はまるで夢のなかにでもいるようにぼくのところにやって来る」と言ったゴッホ。
彼らは見ること感じることの生々しさを絵画として実現しようとしたのである。
〜神林恒道ほか編「芸術学ハンドブック」より
描く対象となる事物や景色。
それ自体は不変のものであったとしても、それを見る私達の中では、折々によって形や意味を変え、形ある事物や景色から形を持たない心象に変換され、私たちの内面に定着する。
その形ない心象から、形ある絵画に再度変換を試みる画家の(あるいは芸術家の)創作とは、五感が捉えた「感覚の総体」、自らの知覚の探求とその表出であるとも言える。
つまり、「何を描くか?」という描く対象に重きを置くのではなく、「描く対象を自分がどう見るか、どう知覚するか、そしてどう表現するか?」に重きを置くことへの転換。
まるで初めて絵筆を握った子供のような筆触分割の瑞々しいタッチで、見たもの、捉えたものの質感のリアルさを、まるで祈るように一筆一筆に託し、カンバスに描き出すモネ、セザンヌ、ゴッホ。
「人が何かものを描くのは、そのものを見るためだ」とコリングウッドは言う。(「藝術の原理」より)
そして描くことはまた、描く対象そのもののみならず、自分という存在、ひいては生きる意味を見るためでもあるように思える。
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