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2024年04月14日12:42

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日日日記「私の代わりに見て、描いてくれたもの」

福田平八郎作「漣(さざなみ)」に寄せて

「芸術作品というのは、見る人の記憶に触れるか、それが大切なんですよね。
『私の代わりに描いてくれた』と感じる、思う。
それが結局、普遍性と言われるものの正体ですよね」
〜千住博(日曜美術館「時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」)より。

冷酷なまでに世界を見抜く透徹した目も、美しい声も持たない凡人である私は、私が捉えた世界を語り、表現する術を持たない。
それでも、私なりに世界というものを見い出し、そこに満ちている音に耳を傾けたいと思う。
私なりに世界を捉えてみたい。
それは、私という人間の命の営み、生の営みに直結しているようにも思える。

「私の代わりに見て、描いてくれた」
そのように思える絵画や造形作品に出会ったとき、人は歓び、嬉しさそして深い感銘を受けるのではないか。
「私の代わりに世界を表現してくれた」「これこそ、私が見たかった世界なのだ」と。

それは、何とも言えない(文字通り「言葉にできない」)曖昧模糊として不定形の心のモヤモヤに対し、そこに形を与え、何かしらの意味を与えることで、簡単に言えば「ああ、オレが感じていたのは、こういうことだったのか」と腑に落ちる、自らの認識下に置く「言語化」の作用と似ている。
ひょっとしたら「私の目となり描いてくれた、耳となり聞き出してくれた」という歓び、嬉しさに加え、「言いたかったことを先に言われてしまった、描かれてしまった」という嫉妬のようなものも含まれているかも知れない。

「漣(さざなみ)」の絵画がザワザワと心を波立たせる。
そこにあるのは、作者と鑑賞者との、心の波紋の響き合い。

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