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2024年05月18日18:03

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日日日記「紙芝居の昔から太古の世界へ」

あるマイミクさんのつぶやき&コメントのやりとりから。

「紙の本から音声動画へ。言語から動画へ。
まるで紙芝居の昔に戻ったようと書いた人がいて、なるほどと思いました。ということは読む力を養うのが大変になりつつある」

読む力を養うのが大変になりつつある。
それは読む力のみならず、読み解く力、読み解いたものを想像する力。そして外部から取り込んだ作品を、その想像によって自らのものとするための再構成力、再創造力。
それらを育む機会がますます疎外されるということだなと思いつつも、同時並行的に全く別の思いも抱いた。

制作や創造を意味する「ポイエーシス」という概念がある。
プラトンによれば、このポイエーシスとは、「あるものがまだそのものとして存在していない状態から存在へと移行することについてのいっさいの原因」という。
また、人間の制作においては特に「ムーシケー(詩・音楽・演劇の総合)と韻律に関わるもの」を指している。
ポイエーシス(poiesis)という言葉は詩(poesia)の語源でもあり、またムーシケー(mousike)は音楽(musica)の語源ともなった。

このように、古代ギリシャにおいて詩、音楽、演劇は明確な区分なく、分かちがたい渾然一体のものとしてあった。

話は更に古代に遡る。
初期人類においては、原始宗教としての祭祀、儀礼にあっては、神へ捧げる祈りの言葉の韻律も、その言葉を載せる音楽も、強大な力を自らの手中に収めるかのように畏怖の対象を描く絵画や彫刻も、まったく区分されることなく渾然一体のものとしてあったのだろう。

その後文明の発展、布教や典礼のための宗教音楽、目には見えないイメージとしての神や神の慈悲をビジュアルなものとして可視化する聖像・イコンとしての絵画や彫刻・工芸、更には文芸復興、ルネサンス、そして聖書の伝播に繋がる活版印刷など科学技術の進展を経て、文芸は文芸、音楽は音楽、絵画は絵画、彫刻は彫刻と、宗教的な祈りのための「総合的な儀礼」は、個々の「ジャンル別の芸術」へと独立、分化していった。
個々に独立することで、芸術は神への、自然への「畏怖と祈り」から、人間存在の確認のための「表現」として、全く別の意味と価値を担うことになった。

しかし同じ「言語」を、文字は視覚によって、同時に発話は聴覚によって知覚され、最終的に両者は統合されることで認識されるものでもあることが示すように、本来、五感とはそれぞれ明確な区分をおいて個別に捉えきれるものではないように思う。
音楽は聴覚、絵画は視覚だけで捉えきれるものではない。例えば(手に持つことが可能な)彫刻なら、視覚と同時に触感からも捉えることができる。
聴覚のみが音楽を、視覚のみが絵画を捉えるのではないというように、芸術の個別のジャンルと、それに対応する感覚は、必ずしも一対一対応の関係にあるのではない。
五感はそれぞれ個別に機能するのではなく、相互に分かちがたく結び付いて物事を捉え、最終的に「感覚の総体」として認識する。

紙の本から音声動画へ。言語から動画へ。
それは、マイミクさん語るところの「紙芝居の昔」に戻ることなのだろうか?
あるいは、諸芸術が渾然一体となった「太古の初期人類の世界」へと回帰、還元していくことなのだろうか?

その結果にあるものは、読む力、読み解く力、想像力そして創造力が疎外されゆく危機か?
それとも、ジャンル別に別れてしまった諸芸術を、五感をフル稼働することで総合的、統合的に観賞することへの契機なのか?

抱くべきは、感覚が衰退することへの懸念か?
諸感覚を統合した「感覚の総体」による、新たな観賞方法に導く契機となることへの期待か?

マイミクさんとのやりとりから、このようにアンビバレンツな思いを抱いた。
相反するそれぞれの思いを統合する「感覚の総体」のような答えは、どこにあるのだろうか?

【追伸】
このような考察を巡らすきっかけを与えてくれた、あるマイミク氏とのやり取りに感謝を込めて。

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