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2024年04月14日02:55

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見る目

大学に入った頃、音楽系のサークルでカオリンって呼ばれている女の子がいた。


その女の子に、「かわいいね、かわいいね〜♡」と言われた。



その言葉を聞いた時、俺は率直に「?コイツ、頭おかしいんじゃないのか?」と思った。


あらゆる事に失敗してきた俺が、かわいいって、わけが分からなかった。馬鹿にしてんのか、コイツは、とさえ思ったのである。


と思っていたんだけど、懐かしきフレッシュマンキャンプや、そして新卒での同期など、まさに、そのカオリンが言ったような反応を、彼女たちがしてくれた。



その時、「未だかつて、俺がこれだけ囃されたことがあったか?」と思っていた。

おもっていたんだけど、失敗や空振りしながらも「良い線に行っている」と実感する事もあった。



小さなことの積み重ねが、大きな一歩になるというのは、月並みな表現ではあるが、俺の好きな言葉だった。要するに、世の中、今までのしがらみをリセットして、新しい自分に!ではなく、どこまで行っても、自分以外にはなれない、地続きでしかないのである。




との時々で、自分が望んだような姿が、今の自分なのであった。そして同時に、私は大切な事を思い出した。フレマンでもいい、そしてどのような職種でもいい。思いやりと協働の気持ちをもって、人に接する事が、もっとも重要なのだろう。




それは理想ではあるが、現実がそうはならなかった。俺は「過去の失敗を、音楽で取り戻す」などと聞き巻いていたが、何の事はなかった。俺は別に、ピアノもシンセサイザーも、そして音楽も、特にそんな好きではなかった。ただ、頼まれたら、一生懸命引き受けるよ、というだけの話である。



なぜ、その当時のフォーソンである佳織ちゃんの事を思い出しのだろうか。と、ここまで考えた時、俺はようやく腑に落ちたのであった。それは即ち、「ああ、こういう女の子といれたら、音楽は口実でも良いよな」という気持ちであった。




二村ヒトシ著の「すべてはモテるためである」というタイトルがあるが、要するに、モテることを放棄した人間と俺は、根本的に相いれないようである。




と、ここまで書いて、やはり佳織ちゃんは、見る目があった、という事なのだろう。結局のところ、可愛い度数が振り切れて、いつの間にか、「女子が俺を避けるとすれば、それは好き避け以外に他ならない」とさえ、感じるようになったのである。マジな話、全ての女子が、俺を好きなのだ、と思えてしまった、まじまじ。




新見南吉の「ごんぎつね」のテーマは、悲哀と、そして「愛」である。そしてもう一つ、敢えて、ごん自身にクローズアップすると、「可愛げ」である。ごんの一挙手一投足が、見る者の心を掴んだ離さないのであった。また、可愛げと言えば、歌舞伎の女形は、女以上に努力して女らしくなる、とあるが、これもやはり所作の作法の話である。やはり、「可愛いは、一日にしてならず」とあるが、「可愛げ」の所作に到達するにも、その域に達するには、並外れた、努力の積み重ねが必要なのだろう、と思えたのである。




芸人のふかわりょう曰く「自転車に乗れなかった子どもが、自転車に乗れるようになった時、乗れなかった事の記憶を思い出せなくなってしまう。忘れる、という言葉を使わなかったのは、前者の表現が、その前後では、まるで別人に変容してしまうからである」。つまり、一度「可愛げ」を体得した者は、それ以前の「可愛げがない」時の記憶を思い出せなくなってしまう。それほどまでに、体得した人間と、「じゃない方」の人間には、天と地ほどの差がある、という事の証左であった。






と、なぜか佳織ちゃんの事を思い出してしまった。そして、彼女、そして彼らから見た「あの集団」はどう映るか?おそらく、眼中に入ることもない。まじで、それぐらい、同じ大学であったとしても、別世界の人間のように映ったのであろう。



と、俺も改めて確信したのである。
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