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2024年04月11日20:53

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大げさに言えば、世界の再創造

「いかなる画家も望み通りの効果を得るには、筆のタッチの軽重、あるいは色調の調整による以外に方法がない。

印象派の画家たちは、単純な色彩を鮮やかに、あるいは軽く画面に置く。
光はあらゆるものと混り合い、それらに生命力を与える。画面を照らす輝きや影が、観客が描かれたものを眺めるちょうどその瞬間だけ立ち現われて見えたと感じることができるように、描かれたものは、絶えず変化し反射する光の調和によって成り立っている故に、つねに同じように見える筈がなく、運動と光と生命とによって微妙に揺れ動く。

印象主義の力によって私が自己のものとするのは、ひとつひとつのタッチによって自然を再創造したという喜びなのである」
〜ステファヌ・マラルメ

画家にとっての絵の具も、詩人にとっての言葉も、本来不完全なもの。言葉では伝えきれないものがあるように、絵画でも詩でも、作者が見て感じた世界を完全に表現し尽くすことはできない。

しかし不完全であるがゆえに、作者が見て感じた世界を、彼独自の方法で表現することができる。もし、何かを語り尽くすことで「完全な表現」というものが可能であるとするなら、それは「表現」ではなく「再現あるいは模倣」と言うべきものではないか。

ピアノを弾く時に、音符では記すことのできない「間」を弾き出してみたい。
マラルメが指摘するように、不完全な音、放たれては儚く消えゆく定めの音と協働しながら。
それは音というより、音になる前の気配、息づかい、呼吸に近いものかも知れない。

逆説的ではあるが、静寂、沈黙が常態化している状況では、「間」というものは認識できないのではと思う。
自然現象、物理現象の音や発話、音楽など「音」があるからこそ無音の状態の「間」が認識できる。
静寂や沈黙があるからこそ、音が認識できる。
それは光と影のように、同じ現象の裏と表。
となれば、静寂や沈黙、、そして間もまた、音と同じ質と量を備えているのではと思える。

映画のワンシーン、見つめ合う2人の間には、そこに言葉はなくても濃密な気配に満ちている。
屹立しあう敵同士の間にも、互いの間合いを見計らう緊張感が充満している。
同様に、楽譜に記された休符は決して「休む、無音」ではない。
「楽音」になる前の気配や「音空間」といったものを弾き出してみたい。

演技なら脚本、演奏には楽譜という従うべき基準や正解があり、そこから外れることは基本的に間違いとされるが、間の取り方には正解もなければ間違いもない、そもそも正解に示し得ないのだから。
間の取り方にはその人の個性、大げさに言えば生き様が現れるもの。
「間」は「真」であり、そして「魔」でもある。

「間」を意識して楽譜の上には存在しない音空「間」を引き出し表現してみたい。
それもまた、私による「音空間という世界」の再創造と言えるのではないか。

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