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2024年04月05日18:31

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「オッペンハイマー」その3

オッペンハイマーは戦争終結後、グローブスやテラーやストローズとの確執をかかえたままロスアラモス研究所を去りブリンストン高等研究所所長に就任する。(1947年)
彼が所長在任期間(1947年〜1966年)に多くの日本人科学者を研究所に招聘している。在籍した科学者は湯川秀樹、朝永振一郎、南部陽一郎、木下東一郎、内山龍雄など70人以上に上った。特に朝永振一郎のくり込み理論の論文が送られてきたとき”すばらしい”とすぐにPhysicalReview誌に記載をすすめこれがのちのノーベル賞につながったといわれる。
彼が日本人びいきといわれるゆえんだが、そこには開発した原爆が日本に使われたという思いだけでなく戦争中世界の科学とは隔絶した状態の日本に世界の先端研究にまさるともおとらない研究があったという驚きがあったのだろう。
オッペンハイマーは1960年に招かれて1度だけ来日しているがその時インタビューで原爆開発について聞かれたとき”後悔はしていない、が、使われたことには申し訳ないと思っている”と答えている。しかし広島へも長崎にも行ってはいない。
こういったことは映画には出てこない。が、彼についてかかれた本を読むと様々な顔が見えてくる。

オッペンハイマーにはさまざまな顔があり、すぐれた教育者として多くの科学者を育てた面や自身が理論物理学者として様々な研究成果を上げた面や多くの研究者や技術者を統括して原爆を完成させるという支配者としての面や世界の核兵器の動向を見通す目を持つ面など見る人により様々な見方がある。ある人にとっては高圧的なカリスマであったり、気の弱い人物に見えたりしている。

しかしそのほかにも裏の面がある。彼はソ連のスパイではないかと疑われて査問委員会によばれて追及されている。
彼は若いころ共産党とかかわりがあった。彼自身は党員ではなかったが、弟夫婦や妻(キティー)も結婚前は共産党員となっていたし、多くの関係者とも知り合っていた。のちに自殺する愛人も党員であった。多額の寄付もしている。こういったことが戦後赤狩りで追及されることになったが、それは水爆の開発に反対したことや核兵器技術は国際管理をするべきだと主張したことで保守系政治家や開発推進派の研究者たちから共産党と関係があったことで追い詰められていく。査問委員会で公職追放の処分を受けるがブリンストン高等研究所の所長は当局の監視下におかれながらも続ける。しかし私生活もFBIに監視されていた。

1967年彼は喉頭ガンに侵され死去する。(62歳)
後年公職追放の処分は不公正であったととりけされ名誉回復する。

その後オッペンハイマーやアインシュタインや湯川秀樹らが危惧したように核兵器の開発は進み、世界中で核実験が行われるようになった。
1952年テラーによる水爆が完成して実験が行われた。続いて1954年のビキニ環礁での実験で日本の第五福竜丸が被ばくし久保山愛吉氏が亡くなったことは良く知られている。
ソ連や中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、イスラエル、南アフリカ、北朝鮮などでも行われ、いままでに2000回を超える。
核兵器は維持費がかかるためアメリカとソ連の間で核兵器削減条約が結ばれ、少しづつ減ってきていたが、ロシアとウクライナの戦争を機にロシアのプーチン大統領は条約履行を停止し、新しい核兵器の開発を始めている。中国はその間も一方的に増やしているようだ。アメリカも古い核兵器の入れ替えということで停止していた核兵器製造施設を再稼働させている。
またもや世界の核兵器の増産状態になってきている。
私は広島の原爆資料館も長崎のそれも第五福竜丸の展示場も行ったことがある。資料館を見ればその惨状は目を覆うばかりだ。日本は被爆国としてもっと強く世界に働きかけなくてはいけない。

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