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2024年04月04日22:08

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「オッペンハイマー」その2

オッペンハイマーについて書かれている本を読むとその複雑な性格が見えてくる。
若いころはたいへんな天才で12歳のときすでに学会で地質学の講演をしている。高校では成績はオールAで、英語以外に4か国語をマスターしている。ハーバード大学に入学したが成績はトップで3年で卒業しイギリスのケンブリッジ大学大学院に留学する。そこでニールス・ボーアに勧められてドイツのゲッチンゲン大学へ移る。
(ボーアは量子力学の創始者の一人でノーベル賞受賞。アインシュタインとの論争で有名。このことは以前書いた。)
  https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986634835&owner_id=39904538

ケンブリッジにいた頃は杉浦義勝、ポール・ディラックと同じ下宿に住んでいたが統合失調症を患い発作を起こす。
医師の手当てにより徐々に回復する。回復した後ゲッチンゲン大学へ移る。ゲッチンゲンではマックス・ボルンに学ぶ。ドイツではヴェルナー・ハイゼンベルクと知り合う。(このところは映画にも出てくる。)(ハイゼンベルクは不確定性原理を発見し量子力学の創始者の一人で、若くしてノーベル賞を受賞する。)
ゲッチンゲン大学のころ、オッペンハイマーはのちのブラックホールを予想する論文を書いている。

アメリカへ戻ってからは25歳でカリフォルニア工科大学、カリフォルニア大学バークレー校の助教授となり、教授へと昇格する。ここではすぐれた教育者として認められる。
そのころ(1935年)中間子論を発表した湯川秀樹がソルベー会議の後アメリカに招かれたとき中間子論をめぐって論争している。
湯川秀樹が中間子論を発表したときは世界の理論物理学からはなかなかみとめられなかった。粒子は陽子、中性子、電子以外にあるとは誰も思わず、パウリなどは”問題解決に新粒子が必要というなら問題が起きるたびに新粒子が増えていくことになる。そんな馬鹿なことがあるわけはない”と非難した。しかし世界は実際そのようになっていきたくさんの素粒子が発見されることになる。オッペンハイマーも最初は中間子という考えを否定した。しかし10年後実際に中間子が発見されると一転して中間子論を擁護するようになる。
オッペンハイマーはロスアラモス研究所を作りたくさんの研究者を集め原爆開発のグループリーダーとして統括して彼らを引っ張り完成させることでなみ外れた指導力を発揮する。(映画の中心課題)
このあたりのことは原爆開発について書かれたさまざまな本に色々出ている。最近読んだ”宇宙は「もつれ」でできている”にも出ているし大昔に読んだ”原子爆弾”という本にも出ている。もちろん伝記にも詳細に書かれている。

ヨーロッパではナチスが台頭してきたためたくさんの研究者たちが亡命しアメリカへわたっている。(フェルミ、ボーア、シラード、ノイマン、フリッシュ、ベーテ、テラー、アインシュタインなど)フェルミはノーベル賞授賞式からそのまま家族とともにアメリカへ亡命している。彼ら(アインシュタイン以外)をオッペンハイマーはロスアラモスに集めて研究させた。
しかしアメリカ政府はアインシュタインにはマンハッタン計画には関わらせなかった。(アインシュタインはブリンストン高等研究所に入っている。オッペンハイマーはアインシュタインとたいへん仲が良かったが、アインシュタインの理論はすでに古いと思っていたようだし、アインシュタイン自身は原爆反対だった。しかしアインシュタインはシラードの勧めで気乗りはしなかったがルーズベルト大統領にドイツより先に原爆を開発するように手紙を出している。)

オッペンハイマーはドイツにはハイゼンベルクがいるので当然原爆開発の研究はやっているものと思い、ドイツが先に原爆を作ると戦争の行く末が大きく変わってしまうと思っていた。しかし原爆が出来る前にヒトラーは自殺しドイツは降伏する。
ハイゼンベルクは原子炉の構造を図に書きボーアに見せて可能かどうかを聞いている。その時の絵が残っていて伝記では紹介されていた。
しかしヒトラーは量子力学の考えは好きではなく、原爆も出来るとは思ってなかったようだ。ハイゼンベルクは研究はしていたが具体的な開発はしてなかったようだ。

原爆製造には様々な問題があり、研究者たちはそれらを一つ一つ解決していく。2種類の原爆を開発しようとする。広島に落とされたのはウラン型原爆でトールボーイとよばれたが、これは材料(ウラン235)がある程度以上あればそれだけで爆発するのでウラン235を作ることだけに専念して実験も行っていない。しかし長崎に使われたのはプルトニウム型爆弾で、構造が非常に難しく、様々な計算実験が行われた。とくに爆縮レンズと云われる構造が非常に重要でその開発にノイマンがあたっている。
そして爆発実験が行われたものはこの方式で長崎に落とされたものと同じものだ。球形をしており重量は4トンもありファットマンとよばれた。(実験機はトリ二ティとよばれている。)
この方式は水爆に通じるので原爆が出来る前からエドワード・テラーが水爆の開発をするように進言した。オッペンハイマーは水爆の開発には反対で、そのためにロスアラモス研究所内は2つに分かれた。
(オッペンハイマーとテラーの確執は戦後も続き、オッペンハイマーが追われる要因にもなっている。)

ファインマンも若手研究者としてロスアラモスへ招請されている。(このことはエッセイ集”ご冗談でしょうファインマンさん”に細かく書かれている。映画のなかでも爆発が成功したときたくさんの研究者たちが喜び浮かれている中でボンゴをたたきまくっている若者がいたが、たぶんあれがファインマンの役だったろう。ファインマンはボンゴの名手だった。しかしエッセイ集には爆発実験のときにはサングラスが支給されたが使わず、車の後ろからフロントガラスまでの2枚のガラスを透して見たとしか書かれてない。ボンゴをたたいたとは書かれてない。)

つづく。


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