mixiユーザー(id:68021579)

2024年03月24日02:05

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永遠平和のために

空想であるわたし
にとって外側はなんだろう?

実在

そして
わたしが源以外の対象というものをつくりたいのならば

空想のそとには作れない

だからわたしの中に作ることになる

対象を作る(分裂)というのは

空想の中において作られている

わたしの中でそのあとさらなる空想次元(分裂)が生まれたということなのである

あらたなる分裂存在にとって
源であるわたしは
現実にみえる

それが自我である

つまり

あらたなる分裂存在にとっては
わたしは(現実ではないが)
現実的な基盤なのだといえる

これが自我という錯覚の正体なのである

そのとき
わたしは現実であるかのようになる
それがレベルの作用だ

すなわち
空想の中にそのあとで生じた相対的意識(対象)の作成が

自我(わたしは現実的という錯覚)を生みだしただけである。


わたしは現実

という錯覚となるのは

わたしが感じる対象があるためである

したがって

わたしの対象への興味がなくなると

わたしの現実性は

失われ

わたしも価値のない存在

ということもわかりはじめる

これが虚無感である

この虚無感は

間違っているのだろうか

いや

まさにそのとおりである

わたしとはほんらい空虚感であり

空想なのだから

まさに正しい正気にもどりつつあるのだ

それとも

まだ何かをつかみたいのだろうか

溺れるものは藁をもつかむというふうに

無駄なこと

わたしは好奇心であり不安な存在だ

わたしがみる対象も
その感想しかもたらさない

わたしも対象も

在るがままの現実ではないからだ

狂った幻想

好奇心とそれによる不安感であり

わたしが見るものすべての感想がじつはそうである

対象にたいする愛であり苦しみ

だから

興味がなくなる

そして
みずからについても
正気に近づいた虚無感(空虚感)
を感じるようになる

当然

なぜならわたしとは空想(空虚)からだ

そうしてわたしと愛と苦しみのすべてがおわる

まさしく

正気(在るがまま)へと回復するのだから

無邪気な
神はみずからをしりたい
という
スピリチュアルな教えを説きはじめ

そのおかしな神宇宙スピリチュアル(もっと愛をしりたい)本がたくさん出版されているのだが

その遊びはまさしく狂気でしかない

個と対象(宇宙)をつくりだし

ふたたびそれらは愛にもどる進化の計画だというのだ

神の愚かさである
試み(空虚な愛)は失敗しかもたらしてはいない

神の計画の行きも帰りも
虚無感がまっている

そして虚無感に直面したとき

虚無感がおわることになる

それは幻想だったからだ

神のなかの
試み(空虚な旅)がおわるからだ

それは神の試みの宿命である

そして完全に無意味

でしかなかった旅が終焉し

二度とおこることはない

完全なる永遠平和(正気)

が回復するのだ

もう悲しみはどこにもない


これが永遠平和の真理の福音
である






























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