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2024年03月03日09:43

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(インド哲学編)ノンデュアリティオートマチック


無形(神)の存在

その愛の探求者はそれをバクティと呼び

真我探求者はビチャーラ(自己探求)という

同じものが二つの表現であらわされている

源を愛する
もしくは
求めている

という表現のちがい

顕現(ヴィヤクタ)は非顕現(アヴィヤクタ)からうまれる

だが、
その非顕現(探求エネルギーによるプラクリティ 自性心 顕現の根本原理)

以前の

自然な状態が存在する

それがプルシャ(ナチュラルスピリット)である
一度も輪廻転生したことがない存在

そのプルシャからの探求エネルギーが

自性(もしわたしがいたら、好奇心や不安という性質)となり

そして意識(マハットという知性の根源の状態)をもち

さらに自我(アハンカーラ 我執 催眠)がうまれ

そして
心や五大元素が投影される
そうです

ちなみにわたくしはインド哲学(サーンキア哲学)の専門家ではないので
あしからずです^_^
ヨガもしりません。

参考文献は
「覚醒の炎 プンジャジの教え」(ナチュラルスピリット社)
 6章目の内容(バクティやビチャーラ、サーンキア哲学についての質疑応答)
です
あとは、
ネットで
サーンキア哲学 図 というのを
検索してみました^_^

プンジャジの教えはかんたんにいうと、

意識の中では、対象と主体の間には何の違いもない。「私は誰か」という即座の探求の中で、それ自身がそれ自身を明らかにする。

というものです

しかしながら、この教えでは
最終覚醒はむりですね。

探求エネルギーがいだいている意識
からの
さらなるコントロール催眠である
自我意識の力での悟りです
もっといえば
「私は誰か」じたいが
たんに思考
であるという気づきということでしかありません。
そりゃ思考と思考は同じものでんがなー。^_^
それに気づいただけなのが

コントロールを信じる自我意識

なんです

しかし意識
は努力して気づくものじゃありません

努力して気づいている意識は
自我意識状態です
(自我の意識)
そして
自我意識は「私は誰か」が思考でしかない
と気づいただけ
です
これが小悟。

しかし
コントロールなしにすでに気づいているのが
意識(中悟)
なのです
こちらがマハットの反映(コントロールなしの顕在意識)

小悟である自我意識

マハット(意識)のあとの催眠である
アハンカーラ(自我)
の反映
(つまりは顕在意識のなかにある
自我による気づき意識であり、
アハンカーラつまり大自我、形而上の自我)によって投影される脳の信号の受け取り手になります。

その自我意識のなかのマナス(観念)である
「私は誰か」(思考)の「私」は
自我意識による「行為者」という思考です。
投影(生活)レベルでよく用いられている
観念、言葉です。

これらはすべてオートマチックです。


かんたんにもう一度いうと
自我意識での
探求(バクティ、ビチャーラ)によって

自然状態(サハジャ プルシャの平安)
に成ることは
できないということです

というのも

さいしょの自性(わたしがいたら)
からしてオートマチックな夢(リーラ)だからです

ほんとうはすべて
それ(ナチュラル)から
のオートマチックなのです

いやしもまたそうです









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