無形(神)の存在
その愛の探求者はそれをバクティと呼び
真我探求者はビチャーラ(自己探求)という
同じものが二つの表現であらわされている
源を愛する
もしくは
求めている
という表現のちがい
顕現(ヴィヤクタ)は非顕現(アヴィヤクタ)からうまれる
だが、
その非顕現(探求エネルギーによるプラクリティ 自性心 顕現の根本原理)
以前の
自然な状態が存在する
それがプルシャ(ナチュラルスピリット)である
一度も輪廻転生したことがない存在
そのプルシャからの探求エネルギーが
自性(もしわたしがいたら、好奇心や不安という性質)となり
そして意識(マハットという知性の根源の状態)をもち
さらに自我(アハンカーラ 我執 催眠)がうまれ
そして
心や五大元素が投影される
そうです
ちなみにわたくしはインド哲学(サーンキア哲学)の専門家ではないので
あしからずです^_^
ヨガもしりません。
参考文献は
「覚醒の炎 プンジャジの教え」(ナチュラルスピリット社)
6章目の内容(バクティやビチャーラ、サーンキア哲学についての質疑応答)
です
あとは、
ネットで
サーンキア哲学 図 というのを
検索してみました^_^
プンジャジの教えはかんたんにいうと、
意識の中では、対象と主体の間には何の違いもない。「私は誰か」という即座の探求の中で、それ自身がそれ自身を明らかにする。
というものです
しかしながら、この教えでは
最終覚醒はむりですね。
探求エネルギーがいだいている意識
からの
さらなるコントロール催眠である
自我意識の力での悟りです
もっといえば
「私は誰か」じたいが
たんに思考
であるという気づきということでしかありません。
そりゃ思考と思考は同じものでんがなー。^_^
それに気づいただけなのが
コントロールを信じる自我意識
なんです
しかし意識
は努力して気づくものじゃありません
努力して気づいている意識は
自我意識状態です
(自我の意識)
そして
自我意識は「私は誰か」が思考でしかない
と気づいただけ
です
これが小悟。
しかし
コントロールなしにすでに気づいているのが
意識(中悟)
なのです
こちらがマハットの反映(コントロールなしの顕在意識)
小悟である自我意識
は
マハット(意識)のあとの催眠である
アハンカーラ(自我)
の反映
(つまりは顕在意識のなかにある
自我による気づき意識であり、
アハンカーラつまり大自我、形而上の自我)によって投影される脳の信号の受け取り手になります。
その自我意識のなかのマナス(観念)である
「私は誰か」(思考)の「私」は
自我意識による「行為者」という思考です。
投影(生活)レベルでよく用いられている
観念、言葉です。
これらはすべてオートマチックです。
かんたんにもう一度いうと
自我意識での
探求(バクティ、ビチャーラ)によって
自然状態(サハジャ プルシャの平安)
に成ることは
できないということです
というのも
さいしょの自性(わたしがいたら)
からしてオートマチックな夢(リーラ)だからです
ほんとうはすべて
それ(ナチュラル)から
のオートマチックなのです
いやしもまたそうです
ログインしてコメントを確認・投稿する