探求のおわり
わたしがエネルギー的というのは
意識(閉鎖性)以前からの
「意識」をおこすエネルギーであるため
そのエネルギーであるわたしとは形ではないのだ
ただ在るがまま(純粋いしき)からの努力エネルギーのようなものなのだ
わたしというエネルギーは
すでにおわっているが
そのエネルギーの残滓は記憶のようなものだ
探求エネルギー(わたし)、意識、自我、
それからのシナリオ(レコード)がまだあるかのようであり
宇宙を投影している
それはたとえば
遠くの光が届いているようなものだ
しかし
その光はもうすでにおわっているのだ
そのため
その光の消滅も届くことになる
それがいやし(恩寵)である
純粋いしき(プルシャ)からの探求エネルギー(プラクリティ)による意識(ブッディ)や自我(アハンカーラ)の
宇宙
(サットヴァ、ラジャス、タマスの顕現である、文明の興隆、歪み、崩壊)
の終焉なのである
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