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2024年02月09日00:00

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映画『658km、陽子の旅』

『658km、陽子の旅』(日本)
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東京の雑踏に紛れ、数多ある賃貸住宅の片隅で孤独に暮らす42歳。故郷には両親も親族もいるし、なんなら同じ都内にも従兄がいる。大志を抱いて上京するも大輪は叶わず、自らに抱く劣等感により人との触れ合い、薄い関わりすら避ける生活→引篭もり。本作の主人公・陽子(菊地凛子)に気を掛ける世間は皆無だった。
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父の訃報で24年ぶりに故郷の青森に向かうことになるが、途中の高速サービスエリアでのアクシデントで従兄の茂(竹原ピストル)に置き去りにされてしまう。手元にはスマホもなく所持金は2,432円。実家への電話も繋がらず、陽子はそこから青森県弘前市まで自力で向かわざるを得なくなった。人との向き合い方が解からない陽子にはあまりにも重いミッション。だが翌日正午に出棺となる父の葬儀に間に合うためには一刻の猶予もない。
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アパートの自室でレトルトのイカ墨パスタを食べながら、オンライン業務を在宅勤務で行う冒頭は、彼女が意を決して最初のヒッチハイクに踏み出すまでが、どれだけハードルの高いことだったのかが解る人物像として描かれる。幼い甥姪の相手すら躊躇してしまうコミュ障レベルの素性から、蚊の鳴くような声で俯きながら他人に「青森に行きたいので、乗せてくれませんか」と言うまでの覚悟と勇気は計り知れない。
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乗せてもらえた1台目の女性(黒沢あすか)は、車中で当然のように陽子に質問を投げる。青森に向かう理由、何故ヒッチハイクなのか。だが陽子はまともな受け答えができず、それどころか言葉すら発せられない。呆れた女性は身の上話をしながら時間をつぶすのだが、陽子はそれにもリアクションできない。トイレしかない小さなパーキングエリアで車から降ろされ、別れ際にお金を貸してほしいと頼むもあっさりと断られてしまう。
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夜も更けた頃にやって来た若いヒッチハイカー(見上愛)は陽子とは正反対の人懐こいタイプで距離を縮めるのも早いが、その関係も有耶無耶のまま次の車を見つけて先に行ってしまう。ようやく乗れたヒッチハイク2台目の運転手は自称ライターという男(浜野謙太)。ここでも話し相手が務まらない陽子は、睡魔に勝てずに眠ってしまいラブホテルに連れこまれる。目的地まで連れていくことを条件に性行為を強要され、やむを得ず合意する陽子だが、その約束もあっさり反故にされ悔しさに泣きじゃくりながら、ひとり見知らぬ海辺を彷徨う。そこで見るのは夢か幻か父親(オダギリジョー)の姿。彼女が家を出た理由にはこの父との確執があったらしいことが想像される。
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かつてない辛辣なロードムービーに胸が掻きむしられる旅路は、陽子の自尊心の低さがあまりに痛々しく見ていられない。だが一歩俯瞰して考えた時に気付くのは、無意識に彼女を女性の理想像と比較した落差の失望感にイラついている自分。映画というメディアには様々な人物が登場するが、陽子のようなキャラクターを舞台の中心に据えることは稀だろう。愛想笑いもできない生きざまと境遇にもがき苦しむ人々が世の中にはたくさんいるのが現実社会のリアルだが、世間はそういう人間から敢えて目を反らして存在が主張されることはない。当事者たちもが息を潜めて自分自身に見て見ぬふり。事実上の社会からの離脱者が街には多くいる。それを改めて知らされる偶像が陽子には凝縮されていた。
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演じる菊地凛子は『バベル』を皮切りにグローバル女優としてハリウッドで活躍してきたが、新人時代に『空の穴』という本作と同じ熊切和嘉監督のデビュー作でヒロインを演じている(主演はなんと寺島進)。同監督の作品は『ノン子36歳(家事手伝い)』以来やや苦手意識を持ってしまい『私の男』や先般久々に鑑賞した『#マンホール』も辛かった。だが今回の『658km、陽子の旅』は魂に刺さった。活動派やヒール役が多く、アクションもこなす菊地凛子に、引き篭もり役を抜擢したのは青天の霹靂。表情の乏しい人物像をその表情で演じきるという難役を見事に昇華させている。
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ヒッチハイク3台目。野菜を無人販売所に配布して廻る仮設住宅住まいの老夫婦(吉澤健、風吹ジュン)の軽トラ。そのエリアは震災の爪痕が未だに残る区域であることが景色で判る。陽子が次に乗せてもらえそうな4台目の紹介まで世話してくれる老夫婦の気遣いに救われた陽子は、別れ際にふたりの手を握りしめる。ライター男によってどん底に叩き落された彼女にとって、この夫婦との出会いは生きる希望と温かみを感じたのだろう。
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ここから陽子の言動に変化が始まっていく。ヒッチハイク4台目は震災ボランティアで見知らぬ被災地に訪れたのをきっかけに、その土地に自分の居場所を見つけて移住をしているという女性(仁村紗和)。彼女の人との交わり方を聞く陽子の表情は、1台目の女性との接し方とは明らかに違っていた。
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道の駅で「青森をめざして、ヒッチハイク中」と書いた紙を掲げて行き交う人と交渉を始める陽子は、青森ナンバーでも乗せてくれない相手に声を荒げて無理な交渉を強いる。ようやく見つけた5台目の少年とその父親に、いつの間にか自分の身の上を話し始める。作品中で全ては語られないが、かつての夢への挑戦を反対されて20年以上断絶していた父娘関係が修復されないまま父の他界を迎えた現実。葬儀に間に合わせようと必死になっている自らの行動にこそ陽子の心の揺れが見える。自らを語り尽くした彼女の表情に、幼い甥姪にすら躊躇していた頃の陰影は消えていた。
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バイク(6台目)で実家近くのローカル線最寄り駅まで辿り着いた陽子は、吹雪の中を歩いて実家に向かう。だがもう急いではいない。出棺時間には間に合わなかったからだ。彼女の辿ってきた人生はこうしていつも間に合わない。父親がなぜ上京を反対したのかは語られないが、夢で父が対峙する描写から察するのは、この旅は彼女が父へ報いる最後の埋め合わせと、これからの自分と向き合うための試練であり、最後のチャンスが与えられたと想像する。行きがかりとして強制的に他人と関りを持つ旅路を経験し、共存の意味と価値を得た陽子。
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これからの一歩をどうやって踏み直していくのかはわからないが、少なくとも挫折以降の虚無感と比べ、恥じるような経験や屈辱があったとしても、それは自分の糧となり未来に向けての肥やしなのだと理解したと思いたい。気付いたのが42歳でも決して遅くない。人と会わずとも生きられる今の時代、似たような境遇で社会に潜む者たちの心に響く658kmの旅。陽子は父への後悔の想いを、敢えて自分の心の傷として刻み込んで生きる覚悟を決めたのだろう。実家の前で立ち尽くす彼女の前に、茂が姿を見せての意外な言葉で本作は幕を閉じる。

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