『バービー』(アメリカ)
公開2日目/土曜日のTOHOシネマズ渋谷は満席。若い女性客が多く全身ピンクでコーディネートしたコスプレ組も散見され、シークレット舞台挨拶でもあるのかと勘ぐった。
ヘレン・ミレンのナレーションで開始いきなりの『2001年宇宙の旅』パロディのごとく、白黒ストライプ水着姿(バービー発売当初の水着)の巨大なマーゴット・ロビーを見上げる少女たちが、溺愛していた赤ちゃん人形を叩きつけて破壊する。グレタ・ガーウィグ監督らしからぬ視覚的インパクトからの始まりは『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』とは明らかにトーンの違う空気感に困惑。
続いて描かれるは異世界バービーランド。容姿のすべてが完璧な定番バービー(マーゴット・ロビー)が、あの伝統の化粧箱=ピンクボックスからの衣装で登場し、劇中劇を演じるように芝居がかった挙動で、何もかもがハッピーな日々を楽し気に振る舞う。このランドの住民は誰もがバービーと呼ばれ、男性は誰もがケンと呼ばれる(唯一の友人アランを除く)。油断をすると置いてきぼりを食らい兼ねないお花畑満開的ピヨピヨ世界感にしがみつきながらの鑑賞が必要な前半。これはあらゆる意味で疲れる映画だ。
世界が愛したファッションドール「バービー」でフェミニズムとジェンダー格差、更には反資本主義思想をも問おうとしているグレタ・ガーウィグの凄まじい志には、尊敬と呆然自失の両方の念が脳内を巡る。しかもバービーとケンのカップルを中心とした展開なのに恋愛論は一切排除しているという異色性。本作はそもそもマーゴットの方からグレタに持ち込んだ企画らしいということを鑑賞後に知って驚いた。
1959年に米国マテル社から発売された着せ替え人形Barbie(バービー)は、極端なプロポーションとファッショナブルで精巧な完成度によって爆発的ヒット玩具に昇華。やがてボーイフレンドのケンが誕生しハウスや小道具も充実していく。更には黒人、イスラム系、アジア系バービーも登場していくのだが、小説やコミックではないので具体的な物語は存在しない。つまりこのマーチャンダイジングには原作が無いのだ。職業も曖昧で性格も不明。仮に日本の言葉で愛玩人形バービーを紹介するなら容姿端麗、純情可憐、清廉潔白とでも云うべきか。
マーゴット演じるバービーは実写版としてこれ以上にないと思える容姿のそれらしさが見事だし、そのビジュアルが喋って行動する様子は、最初の数分でそのキャラクターを我々鑑賞側に刷り込ませる。それは前記の四字熟語よりも自由奔放、無念無想、軽挙妄動あたりの方が適切で、思考思想のないデフォのキャラクター性が容姿のみならず性格も含めてマーゴット版バービーを完成させる。この後の展開のためにはこれが非常に重要で、バービーの初期状態は鑑賞側全員が認識を持っておく必要があった。いつものバービーではなくなる異変の始まりが以降の物語の基軸となるからだ。
大統領、判事、学者、医師、作家、外交官、記者、弁護士、人魚、妊婦、障害者。かつて世間では “バービー人形は女性差別の象徴” “女性美を理想に嵌め込む固定観念が子供を洗脳する” と批判されて生まれたダイバーシティなバービーたち。同じくケンも大量に登場するのだが、このバービーランドは完全にウーマンスプレイニングとなっており、そのことに最初まったく疑問を持たない大勢のケンの思考能力が哀れ。これはマンスプレイニングな人間社会への風刺も含め、かつてのバービー騒動へのセルフパロディなのだろう。
そんなバービーがとある要因により「死」を意識して自我に悩みだすのがバービーランドの異変の始まり。かつて人間に遊び倒されて髪を切られ堕落した変てこバービー(ケイト・マッキノン)の指南によって人間社会に出向いていく騒動は、あくまでアメリカンユーモアを前面に押し出したパフォーマンス(バービーランド⇔人間社会の移動シーンはCG無しのアナログ演出が楽しい)を維持しながら進行する。
定番ケン(ライアン・ゴズリング)が人間社会を経験することでマスキュリニティに目覚め引き起こす“反乱”が終盤のメイン展開となるのだが、ここでも冷静に彼の思考変化を追っておかないと行動規範が追いきれなくなる難しさがある。所詮はバービーのアクセサリーでしかないケンが、自らのアイデンティティを主張するという掟破りの展開は、彼にとっては男尊女卑への目覚めどころか人権主張に値するくらいの切実さなのだ。だがこれらも実にアホらしくコミカルな描写で展開するため、アイロニカルな忠告が消化できないまま笑って見過ごしてしまう可能性があるのも恐ろしい。
男ばかりのマテル社の役員たちこそジェンダーモラル意識が浅いまま商品展開を行ってきた張本人たちなのに、バービーの主張に聞く耳を持たないことに苛立ちが募る。これからどうやって決着を付けるのだろうと思っていると、バービーランドに連れてこられたマテル社の女性秘書グロリア(アメリカ・フェレーラ)による、あざといポリコレ批判を根底にした演説が事態を収拾し、ランドのパワーバランスは元の世界感に修復されていく。この決着は白眉ではあったが説教くさいところが好みの着地ではなかった。もう少し台詞以外でも共感させて欲しいと思ったのは自分が男だからだろうか。
フェミニズムを主張するだけではなく、その自覚を女性自身が持つことも重要なのだと理解したバービーが、人間界に挑む手始めの行先は婦人科。自身が人形であることを受け入れたままなのか、それとも敢えてそこに訪れる意味を持ったのかを考えさせられるエンドロールは上手い。本作はジャンル的には間違いなくコメディなのだが、そこに潜むアンチテーゼとして極めてシリアスな問題を数多く詰めこんでいる。
多様性の良し悪しよりも、凝り固まった価値観を考え直す気付きのヒントが本作には散りばめられている。鑑賞後に改めて冒頭のバービーランド世界を振り返ってみると、最後は必ず死ぬその日まで、毎日をどう生きて何をするか?を問われていることにも気付く。バービーが自らの生きる価値への再構築に向けた第一歩を踏み出すラストカット。これはもしかしたらアカデミー賞くるかも。
<映画レビューを切通理作さんのメルマガ内にて連載しています>
月2回配信、購読開始から1ヶ月無料
http://yakan-hiko.com/risaku.html
切通理作編集メールマガジン『映画の友よ』
【 料金(税込) 】 660円 / 月
【 発行周期 】 月2回配信
【 最新発行日 】2023年8月31日
映画の友よ Vol.229
<宮崎駿の世界〜『君たちはどう生きるか』編その2 高畑勲の「世界」との別れ>
<『裸足になって』と「役者の顔」/公団住宅と超能力〜『イノセンツ』>
ログインしてコメントを確認・投稿する