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2023年09月04日15:24

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映画『福田村事件』作品レビュー

映画『福田村事件』作品レビュー

 わたしが住んでいる千葉県の流山のすぐそばで、妊婦、婦女子を含む日本人9名が地元の自警団に殺されたという史実に衝撃を感じました。
 まず、この事件を掘り起こした制作陣の気概を買いたいです。今年110年を迎えた関東大震災では「朝鮮人暴動」のデマが広まり、各地でいわれなく朝鮮人や日本人が殺傷されました。その一つ、千葉で実際に起きた福田村事件を題材としたフィクション。ドキュメンタリーを主戦場とする森達也監督が劇映画を初めて演出した作品です。地元に住む自分でも知らなかった歴史の闇に埋もれた惨劇。ここでは当時の世相を浮き彫りにし、殺されたものたちの名前と顔を取り戻し、当事者の目から語り直す力作です。

■ストーリー
 物語は、香川県から被差別部落の薬売りの行商団が関東に向かうところから始まります。沼部新助(永山瑛太)を親方に初体験の少年も加えた総勢15人。
 一方、日本軍による朝鮮独立運動の弾圧に心を痛めて、日本統治下の朝鮮から戻った元教師の澤田智一(井浦新)と妻の静子(田中麗奈)。古里の千葉県福田村(今の野田市)に戻って農業を営み始め、再出発を目指します。
 そんな村では、シベリアで夫が戦死した咲江(コムアイ)は、夫の留守中に村の船頭、倉蔵(東出昌大)と関係を持っていました。そのほか、老いた父親井草貞次(柄本明)と妻のマスの関係を疑う息子の茂次(松浦祐也)など小さな村の中にも愛憎が蠢いていました。、
 また軍の威信をかさに、のさばる在郷軍人会の分会長長谷川秀吉(水道橋博士)と民主主義を信奉するインテリの世襲村長田向龍一(豊原功補)とはことあるごとにぶつかっていたのです。
 そこに大地震が発生。避難民からもたらされた「朝鮮人蜂起」のうわさに、村は騒然となります。
 「朝鮮人が日本人を襲っている」とのうわさが日増しに大きくなり、村では自警団を組織。地震から5日後の6日。村に入った行商団のリーダー新助と船頭の倉蔵の言い争いをきっかけに自警団の一人が行商団を問い詰めるのです。朝鮮人ではないのか!と。
 その結果朝鮮人と誤解された香川の行商団の15人のうち、妊婦や幼児を含む9人が殺害され、6人が生き残ってしまいました。後に全員が日本人、香川の被差別部落出身者だったことが分かるのです。

■解説 

 デマは日韓併合に始まる朝鮮人への差別意識が招いたものですが、被害者側の部落差別の関係者が口を閉ざし、その後の検証を難しくした面があります。映画ではほかにも職業や性別など重層的な差別の構造を通じて、一見のどかな村落共同体の排他性をあけすけに描かれます。
 
 背景に、韓国併合以来の韓国での独立運動の高まりと、反日感情を警戒する日本で強まった朝鮮人差別があります。地元紙の記者楓(木竜麻生)は、震災後の凶悪事件発生を報じる記事を、犯人は“主義者か鮮人か”という決まり文句で結ぶことに抵抗します。多様な人物は善悪に色分けされず配されて、一人の中に差別も偏見も、善意も持ち合わせるように描かれているところが、森監督のこだわったところ。
 森監督は、「悪人を作らない」演出に神経を配ったそうです。加害者となった自警団も、村や家族を守ろうとした市民であるという視点を忘れたくないからです。「あくまで、普通の人がなぜやってしまったのかに焦点を当てた。その場にいたら、自分は加担しないと言えるのだろうか」という森監督のインタビュー記事は、胸に迫りました。
 ドキュメンタリーではなく、劇映画を選んだのは当時の資料が乏しかったこともあるようです。事件は長年タブー視されてきましたが、たとえ劇映画の形でも歴史の闇に光が当てられたことは、意義があることでしょう。
 地震を契機に不安と恐怖が噴出し、流言飛語に点火されて惨劇に至ったのはどんな状況だったのか。平凡な人間がいかに集団的な狂気に至るか。資料の隙間を想像力を駆使して埋め、真実に肉薄できるのが虚構の力。製作、俳優陣の気迫と覚悟も感じられます。
 主演の井浦も「目を背けたくなるような歴史を知ってこそ、良い方向に変わっていく未来がイメージできる」と強調しています。
 
■いまの日本につながること
 私たちは、この作品が、いまの日本の当面している問題とそっくりかかわっていることに愕然とします。
 たしかに差別で集団殺戮は起らないでしょう。
 しかし森監督出発点となった、オウム真理教の教団内部を撮ったドキュメンタリー「A」(1998年)を思い出すとき、本作のようなことが現代でも起りかねないことを想起させます。
 監督が接した信者の一人一人は善良で穏やかで、「凶悪集団」と いうイメージから、かけ離れていました。「でも同時に、命じられていたら、地下鉄にサリンを撒いていただろうな」と信者たちは語るのです。「なぜ普通の人が、こんなことやったのか。その問いが自分の中にずっとあった」と森監督は語ります。
 ましてネット社会となった今日。この事件が起こった当時よりも、デマの拡散は一層容易に起こりやすくなっています。それを一層顕著にしていることが活字離れと思考力の低下。ネット動画を倍速で視聴し、情報源にしているとセンセーショナルなデマに感情的になりやすくなるのもも当然でしょう。
 根拠のないデマの流布だけでは、炎上する人物や集団のいのちをとられることはありませんが、社会的に抹殺されて、名誉回復は困難になってしまいます。
 それが本作の事件のように、たったひとりの囁いた不確実なコメントが拡散されて、大炎上を招くのです。
 そういう集団心理の狂気を描いた本作の決して100年前の出来事ではないという主張は強い説得力を持つのです。歴史の闇を掘り起こしただけの迂遠な作品ではないゆえんです。        

■最後に
 本作は群像劇をうまくさばいています。
 まずは「顔」が見えます。加害者も被害者も顔をしっかり映すのです。とりわけ、在郷軍人や自警団、村人一人一人、村長らの顔が見えます。多くの人物が登場する群像劇でありながら個々の内心を想像させるのです。それは、事態の緊迫度が増すにつれて強い震動の源となって押し寄せるのです。

 また行商の薬売りを朝鮮人と誤解した村人の擦り半鐘で、在郷軍人や自警団らが集まってくるシーンでは、地元の警官は、署に帰り身元照会をするから待てと村民を落ち着かせますが、在郷軍人の面々や自警団は収まらず、押し問答を経て、意外な人物が虐殺のきっかけとなります。
 祭り囃子のような太鼓の音がとどろく中、本能で逃げ、本能で追う両者を、それまで固定カメラで撮っていたのから、手持ちカメラに切り替えて緊迫した映像で映し出します。 その瞬間は、善悪の構図だけで捉えきれない。一種のトランス状態でした。
 手持ちカメラながら画が大揺れすることはありません。いかにもドキュメンタリー監督の劇映画らしさを裏切る手法が、新鮮に感じました。

■繊細なディテールは特筆もの
 救いようのない結末に向かう物語は、行商団と朝鮮飴の売り子の交流など繊細なディテールに満ちています。犠牲者の一人は臨月の妊婦でした。お胎の子が生きる時代には平等な社会になるよう、一同が願う場面があります。100年後の現実は果たしてどうなっているのでしょう。

公開日 :2023年9月1日
上映時間:137分
https://www.fukudamura1923.jp/


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