ノンデュアリティオートマチックについて
魂(自我、自我意識)
は
体外離脱状態から
たとえばバスや列車にのるなどの夢(象徴)をつうじて
朝という投影の中の肉体にもどる
さて、上記とおなじく
個を現実化した自我意識や
その背景としての意識というのものも
死んでもつづくものである
意識をつくりだしている
I AM
(コースのいう決断の主体)もしかりである
I AMは意識をつくりだし
その意識上で
自我
と
聖霊(ナチュラルスピリットという記憶)
を
選択する
(しかしナチュラルスピリットの記憶のほうを選択する という表現は方便であり
ほんとうのナチュラルスピリットの記憶は
決断および主体よりも以前の
ナチュラルスピリットへの帰還の無境界の領域 ボーダーランドに、ただある、ので個の努力とは無関係である)
奇跡講座は
朝目覚めたあとに学ぶものであるため
聖霊(ハート)からの思考
を
まず自我(と脳)ととともに本を学んでいく
それゆえ
神は依然として外側にあると考えざるをえないために
恐れもいだくのである
しかしほんとうは
奇跡講座を学ぶかどうかの衝動は
じつは
自我がしているわけではない
それゆえ恐れつつも
学びはおきることになる
自我とは
自律、コントロールという誤った信念(解離催眠)であり
そのあと宇宙を誤創造した
しかしながら
根本的に個を作ったのは個ではない
自我は自律存在ではない
(だからといって盲目の自我ではなく、ナチュラルスピリットが直接、不自然な宇宙を誤創造したわけではない。)
幻想の宇宙がはじまるまえ
非個(ナチュラルスピリット)が
個(I AM)を空想し、解離催眠による現実化(自我)をしていたのである
したがって
個を癒すのは、個ではありえない
すべては
ナチュラルスピリット(実相)から
の衝動である
個という好奇心(I AM)
も
それの帰還カ(いやし)
も
である
そして二つの実在
は
ない(ノンデュアリティ)
であるため
すべての衝動はオートマチックなのである
そしてナチュラルスピリットは
無意味なワクワク砂場遊びを二度としないことだろう
なぜなら
夢によって
存在(エネルギー)はなんにも
増えることはなく、ただ疲れただけだったのであるから
つまるところ
無意味な夢の旅でしかなかったのである
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