「空回る事」が「俺の心の病気」であるとしたら、
「心のケア」という形で、それを治療しなければならなかった。
俺はただでさえ「ロックオンされる上に、ずっとそれに関してのケア」が不可能な状態であったのだ。
「心の病気」というのは、ある種「怒りの解放」で癒されるのであろう。
「男の一人っ子」「同和地区」「男の英語教師」「クラブ顧問の校長への忖度による半強制」は、
明らかに「そうじゃない属性」の人たちに、皺寄せがやってくる。その「歪み」のスケープゴート役として私が狙われた‥
だが、上記のような属性を持つものは、言うまでもなく「ある状況限定」である。
「生け贄役」が居なくなるとき、そして、真実が明かされる時、
「精神崩壊」に、彼らは耐えられるだろうか。
「他人のせいじゃなく、自分の責任」というなら、俺の責任は「自分の守るために、心のケア」を蔑ろにしたことであった。
これは、他人云々の話では、確かにないだろう。俺を「感情のゴミ箱」並びに「不安処理機」にした、母は除いて。
そして、「自分のせいではなく、他人のせい」というのなら、
俺でなくても「ケジメ」を取らされるというのは、紛れもなく当人のせいである。
俺は俺、他人は他人という「父性原理」に則れば、
「心をケアする、自分を守る」ということを放棄したのは、俺のせい(というか母のせい)である。
そして、「心の病気をほぼケア」した俺に(俺ではない他人)、ケジメつけられるのは、そいつのせいだろう。
「ある状況限定」で不実な真似をした(あるいはその発端)人間に対しては、
なるようにしかならないだろう。俺は彼らを認知できない。それ故に、思考する必要はない。
「報復したい」って言っている内は、「心のケア」が完了してないと思われる。ケアが済めば、不必要なメモリーは抹消するように、人間は出来ている。不都合な事は締め出し、そしてぼうきゃくするように。
ログインしてコメントを確認・投稿する