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2024年05月24日00:32

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歴史は繰り返す。但し、一度目は悲劇として。そして二度目は喜劇として。

タイトルの意味は、要するに「初見では、経験がない故に、ある出来事を悲劇だと思ってしまう。しかし、時間がたつことで、経験として自身に蓄積され、似たような事が起きても、舞台裏、つまりネタバレを知っているので、どれほどの出来事でも喜劇にしか映らない。」と。それは、自身にとって、一時期でも恐怖の対象が、完全に喜劇としか見えなくなった、という事であった。



かつてナポレオンは、電光石火でヨーロッパを制覇したが、半世紀下って、甥であるナポレオン三世が、似たような事をしても、三週間足らずで逆に制圧された。いわゆる、『ブリュメール18日戦争』である。




さて、かれこれ、『殺したい怒り』を噴出させて、そのモヤモヤを書き連ねていたのであるが、愛知の日吉神社の『はきだし皿』、そして夢の中に出てきた『セイクリッドセブン』のヒロイン、藍羽瑠璃ちゃんや、『関西大学』の事などを通じて、俺はある言葉に出会った。


それは、既出ではあるが、『エロスとの遭遇が遅ければ、タナトスに飲み込まれる』という物であった。


うろ覚えであるが、芸人のふかわりょう曰く、『自転車に乗れなかった子どもが、乗れるようになった後、どうして乗れなかったのか、思い出せなくなるように、『それを体得』した前後では、まるで別人になってしまう』と。




エロスに向かないと、タナトスに飲み込まれてしまう。


換言すれば、『エロスとの出会い』こそが、タナトスを自分から「分離」させてくれるのであろう。


高校入学して、ちょうど20年が経つのだけど、俺にちょっとでも、『どれを選んで、どれを捨てるのか』であったり、『それをやると、どういう事が起きるか』ということを想定し、そして実践していれば、防げたであろう事態を、俺はやらかした。または、『そうせざるを得なかった』とも言えるだろう。


ここで不思議なのだが、どうやら俺は「命を懸けても継がなくてはならない」と思った出来事があった。それは中学時代のある先生であるが、いくらその人が俺に優しかったかもしれないが、だからといって、彼と一体化する必要はないだろう。信念を貫くということは、換言すれば『思い込みが激しい』とも言えるのである。



ところで、俺は「怒り」というものには、二種類あると思う。一つ目は、『本当の事を指摘されて、怒れば相手を封じれると思っている』タイプと『自分の誠意にデタラメかまされて、これはもう、やるしかない』と、文字通り「封印が解ける」というタイプである。





前者は、長い時間の蓄積の結果、「王と奴隷」というような力関係を築いてきたのである。だからこそ、「怒れ」ば、相手を黙らせられると思っているタイプだろう。


そして後者は『当然の報い』を受けさせるタイプである。個人的には、俺は後者に近い。





いや、『近い』というか、もはやそういう『怒り方』しか出来なくなってしまった。これが、先ほどのふかわりょうが言っていた「それを体得した前後では、その人自身が、全くの別人になってしまう」という事なのであろう。



というか、それを体得するのに、六年ちょっとのどころではない。その三倍以上の、実に20年ぐらい、そのような『封印(?以前は封印していたのか?何で?それも思い出せなくなっていた)』していたのである。


お恥ずかしい話ではあるが、年表にすると、こういう感じだ。



2003年…『当然の報いだろ』と、俺には関係ないと突き放すどころか、俺のせいで、この顧問を泣かせてしまった。この人の想いを命を懸けても継がなくては…!と思い込んでしまった。信念を貫く、即ち、思い込みが激しいのである。

そして、この出来事が、高校入学以降、ややこしい事態の端緒となる。

2008年…色々あって、『辞める恐怖症』を発動させる。驚くべきことに、コロナが始まった辺りでも、俺は同じようなことを言っていた。

2010年、事件勃発。

2017年 母が教師を引退したタイミングで『殺したい怒り』が湧き出てきた。2010年のヤツに対してではあるが、だが、自分自身、それとは裏腹に、一体何に対して怒っているのか、分からなくなっていた。だが、ここでヒントなのではあるが、母が教師を引退して〜ではあるが、『母が教師で、まるで息子のことなど、心の気持ちなど考えなかった』ことによる、俺の「心の病気の始まり」が、以前にもあった、ということであった。それが、2003の出来事であった。
この年、カウンセリングも受けたが、なぜか、怒りが止まらなかった。

『何で、そんなクソしょうもないことを、俺は思いだしているのか』と俺が思えば、もう一人の俺が「ほな、何でそんなクソしょうもなヤツに黙ってるねん、はやく殺す目にあわせてこいよ」と。


この時、はっきり覚えているのが『梯子を外された』という事であった。今では誰も気にすることなどないが、自分が「何を選んで、どういう努力をしているのか」という事よりも、『俺が選んだわけでもないのに、何故か俺が自ら選んだという話になって、どういう努力をすればいいのか、いや、そもそも何に対して努力しているのか』、まるで分らなくなっていた。要するにこの時、父の尋常ならざる空回りと、母の感情のゴミ箱にされてきたことで、『分離ではなく、融合』向かっていった、自分自身に対しての弁明や説明が、まるでつかなくなっていったのである。


今だから思うのだが、個人的には、『力関係』というのは、長い時間の積み重ねである。自分より下だと、ある程度時間をかけて認識したやつは、要するに奴隷とみなして、搾取するのであろう。換言すれば、それは俺自身が『奴隷』とみなされるような振る舞いを、長い時間していた、という事の証左に他ならない。ということは、どうして自分は奴隷であり、そして言いなりなのか、要するに「自我がない」という事であった。自分のアイデンティティなのか、全く分からなくなっていた。姉は、母の理不尽な仕打ちから、ほぼ絶縁していたが、その『不安処理機』役が、俺に移ったというだけの話である。俺は母が教師を引退した時、『はあ〜お疲れ〜』という気持ちが多少あっただろうが、まさかこの前後で、俺の中で「天変地異」が起きるなど、思ってもみなかったのである。そこから、最愛の祖母の他界など、かつてこれほどまでに、悪い事が重なったことがあっただろうか、と思えてしまったのである。



2022年…京都にある「安井金毘羅宮」そして、エナジーカウンセリングに対して、当時の時点ではあるが、ある男と絶縁する事ができた。俺は基本的に、俺が信用していないやつと絡む人間も同類だと思っていた。それが、金魚のフン野郎であり、ゴミ同士が集まる集団の部長笑であったり、後ろめたい者が、それらとつるんでいくのだろう。

関係の始まりが『成り行き』であったのなら、終わる時もまた『その程度』のものでしかないだろう。終わるとき、『何でこいつとつるんでたんだ?』であったり、俺を見るときに喜色満面になるとき、『弱味を握っている、こいつは、心の病気が治っていない、そして上に立てる』と思っていたのだろう。俺が鉄のように冷たい顔になって、その日の晩に、ワンギリがなって、それっきりであった。結局のところ、それが、僕と彼との『関係性』なのであろう。彼は僕を『捨てた』とも言えるが、おそらく当たり前の事というのは、口にしないのである。『捨てた』というよりも、むしろ「最初からいなかった」という方が正しいだろう。最初からいなかった、というのは、換言すれば、『最初から、選んでいない』ということだった。選ばざるを得ない、ある状況が、俺は自分の全てだと『思い込んで』いたのである。こいつであろうと、イジメの主犯であろうと、そして、陰キャ以下のゴミであろうと、彼らを俯瞰して見え見ると、滑稽でしかないのである。俺は悲劇だと思い込んでいるだけで、結局は、『当然の報い』から、距離をおきたくて仕方ないのだろう。これまでの『当然の報い』を受けるヤツってのは、もちろん全員がじゃないが、『その状況が終わったあと、俺を見た時、目に怯えが宿った』という所は共通していた。そして、まるで犯罪者が、警察という言葉だけで怯えて警戒するように、『俺のとこに来たということは…』俺は他人なので『……』の後を想像するしかできないが、少なくとも彼らの多くが『当然の報い』という事を、『それっぽい』ことを後付けで並べているので、換言すれば『先に説明をきちんとすれば、その報いということを、受けさせるのは、ある意味で、彼ら自身の言動と合致しているのでは…』と思わずにはいられなかったのである。ここで大切になるのは『覚悟』であろう。自分を守るためには、もう取り返しのつかない事をする、という覚悟が必要だろう。反対に言えば、彼には『その覚悟』はあったのだろうか、という話であった。もし、そんなもんがあれば、そもそも仕掛けてこないだろう。全ては結果論ではあるが、『俺が突き放す』という事を、平然と行えて言えば、このような怒りの抑圧、蓄積、決壊、などと言うことは起きないのであろう。

俺はふと、『そいつの初期』の事を思い出した。

高校で、誰とも会話できず、机に突っ伏していた山本。

サークル自己紹介の時に『被害者面して、その結果顰蹙を買っていた』フォーソン崩れのゴミ。


『やたらと挙動不審な、アスペ野郎』

そして、競技ダンス部の人の演目に、陰で『高校の時、陰キャラやった奴が〜』とせせら笑っていた、おそらく、陰キャ以下で、相手にされていないが故の『暇人』である、まごう事ない、ゴミ。

何のことはない。これらは、僕がひとえに「エロスに遭遇しなかった故に、タナトスの飲み込まれていった結果」なのであろう。



2023…職場の同僚の人に、過去にあったことを打ち明けることによって、徐々に症状が回復していく。すくなくとも、タナトスに引き込まれるという事は減っていった。



2024年…夢の中に、藍羽瑠璃、そして『あの大学受けろよ』と、口酸っぱくして言っていた、他ならぬ自分自身…それらの夢を、立て続けに見た後で、俺は、このエロスとタナトスの話を、身に染みて聞いていた。






そしてやっと、『ハンドボールなんてやらなくていいよ、他校なんて、どうでもいいじゃん、お前さんの身が、一番大切なんだよ』と、心から理解できた気がした。




三度、ふかわりょうの話であるが、『心の底で、自分自身の心の声』と遭遇した時、それ以前の状態には戻れなくなっていた。ちょうど、あの男が大阪駅で声を掛けてきた時、『ゴミをみる目そのもの』になっていたように。ゴミということは、少なくとも俺にとって、何ら役に立つことはないのである。カスでもクソでもクズでもなく「ゴミ」である。そう、最初から、知り合う必要などなかったのだった。そしてそれ以降の、必要ないゴミというのも、彼の如き人間の延長に他ならなかった。


『当然の報いだ、ケジメや』と言うとき、少なくとも恐怖はなくなっていった。滑稽ということは、『阿保やな〜、コイツ、後でヤバい事になるに決まってんのに〜』と、滑稽に映る、という事である。先ほど私は、『人間、本当の事は、わざわざ口にしない』と言っていたが、要するに「滑稽に映る」というのは『嗤える』という事である。それはつまり、『滑稽な真似をした後に、どんな事が起きるか』という事を、私が離れたところから眺めているからである。反対に恐怖とは『力関係が一気に逆転する』と、悟った時であろう。先ほどのある男についていえば、俺に対して『嗤ってた』のが『笑える』ところまで引き下げたが、ついに『これは笑えない』と悟って逃げたのであろう(別に追及するつもりもない。ただ、当然の報いを受けて当たり前の人間に対して、俺がその目をしていたことに対して、勝手に俺に絡むこともなくなった、というだけの話である。)俺が疑問に思う所であるが、俺の「殺したい怒り」を抱く相手の多くが、二度と俺の目の前に現れない、というのは、何かこう、徹底した意志の強さを感じてしまう。少なくとも、俺はビビるということは、おそらく彼らに関しても、露ほども思わないだろう。ていうか、何で俺がビビるのか、意味が分からない、という段階になっていったのである。



最後に、中学の時の先生が、恐怖ともあまり思わなくなったが、同時に『滑稽』だとも思わなかった。それは俺が、この人に『当然の報いを受けた』という姿を目にしたからであろう。そして、そう思えた時、俺は初めて『もう終わったことや』と、受け入れる事ができたのである。塾のサッカー少年の時もそうだが、少なくとも「限られた選択肢で、最善だと思う方へ行こう」と、少なくともその時は思ったのである。そしてその時には、その相手に対して、別に恐怖とも滑稽だとも思わなかった。というか、そんなもんをちらつかせてるヤツに、近づくわけなんてない。近づくと言えば、やはり同類であろう。その観点からみれば、俺の「融合」や「調べ」とは、少なくとも、その時はやるべきではなかったし、起きるべきではなかった、のである。



二度と俺の前に姿を現さないか、見た瞬間、目に怯えが宿るカスの、一時期の、しょうもない優越感。



『他人を攻撃すれば、自分に返ってくる』とするならば、彼らの、自分自身に対する惨めな劣等感は、そして恐怖心は、ずっとついて回るのだろう。





それは私にも言える事であった。例えどれだけ殴る蹴るであったも、平気なのは『当然の報い』を受けさせるからである。いや、俺がわざわざ使役する必要もない。当り前のことであるからであった。では、このような日記を書くことも、俺が「当たり前だと思えないから、わざわざ日記に書いて憂さを晴らしているんだろう」と言われると、まさにその通りであった。建前と本音を一緒にするな、他人を傷つけるなって?それは相手次第だろう。新見南吉のごんぎつねのような「健気さ」以上に『鉄の如き冷酷さ』が必要なのである。



『俺みたいなクズの下手に出るってことは、こいつを自分より下に出来る!』と思ったのであろう。



傷の舐め合い集団なら仕方ないのであるが、男でも女でも、この手のバカを評価するやつってのに、俺は出会ったことがない。



というか、クズだと思うヤツに、そもそも近寄らない。何故なら、つるんでる奴らも同類であるからであった。


そうすると、『どうしてこいつと関わっていたのか。というか「こいつって誰だ」という話』である。どうにも思い出せなくなっていた。

先ほど、ある男の話で。

嗤う→笑う→笑えない



と変化したと話したが、正確には、『ある部分』が欠けていたのである。即ち、




嗤う→(嗤えない)→笑う→笑えない





→(嗤われる《蔑まれる》)→耐えられない→(嗤えるターゲットを探しに行く)である。


当然の報いとは、報復ももちろんそうだが、それと同じぐらい「突き放す」という事が大事になってくる。その結果、彼の者の『滑稽な姿』しか、目に映らなくなっていた。陰キャももちろん。




僕にはどうしても、彼のSNSのアイコンが、『遺影』にしか見えなくなっていた。遺影ということは、言うまでもなく『死んでいる』とも同じである。それとも惨めすぎて、他人と距離を置かなくてはならないぐらい、追い詰められてんのかな。だとしたら、本当に本当に。嗤えてくるわ。このゴミは。




いや、ゴミを嗤うっておかしいな。死んだやつのことって、誰も思い出さないでしょう。たいてい、そういうもんだ。


































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