本日の湧いた言葉(小悟について)
いしきはひとつしかないのに
?心 がいて
識別、や判断もしているというのはすべて妄想
だ。
起きてるようにみえて、なにもおきてはいない
これがノンデュアリティ
いしきはひとつしかないため
識別は無意味になっているため
識別に、たいする判断(思考)も無意味として
癒される
最近のYouTubeの
中途半端なノンデュアリティのはなしは
識別(五感)は湧く(起こる)が、判断(思考)のほうは意味ないよ
だとか
いしきのなかのまだ残っている偽教師(自我)が中途半端にスピークしているのである 笑
ラマナマハルシは
そんな中途半端なおはなしはしてない
いしきはひとつしかないため
?自我は実在せず、識別(五感、投影のこと)
が湧いてる(起きてる)
ようでも、
おきてはいない
これがシンプルな教えだ。
これが古えからの聖者(非自我)のおはなしだったはずだ(聖者ラマナマハルシたち)
最近のYouTubeのノンデュアリティは
古えの聖者のおはなしをしらないのだろうか
最近のノンデュアリティスピーカーはほっとくのが一番である
彼らも彼らのはなしも実在しない
努力はいらない
いしきは
いしき的努力をする以前にすでにあります
努力は馬鹿げたことであり
すでにただいしきがあるだけです
以上
小悟についてのおはなしでした。
上記はいしき(小悟)
についてである。
平安(大悟)については
探究エネルギーといしき
は
また幻想であり
自然さが
ナチュラルスピリットの記憶である
平安を
聖霊の概念とすり換えて
対象としての平安として信じたり作り出そうとするのは
意味のないことである
その勘違い努力もいずれオチル
ことになる
ほんとはすでに努力は実在しないのだが
というのも
自然さ(自然精神統一、平安)は
これまたすでにあるからである
自然精神統一がすでにあるのにもかかわらず
わたしが平安を、信じたり、癒すふりして作ろうする
のは
勘違いである
すでに在る記憶に癒されるだけでいいのである。
すでに自然さ(一元)があるのに
なぜ心だとか物(人)だとかいうのだろうか
これが分離した心の投影の様子(二元状態)
であり
どちらも不自然な誤りである
悩まない(探究しない)ことである
すでに自然(一元)なのだから
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