mixiユーザー(id:68021579)

2023年02月09日18:42

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すでに自然(一元)なのだから

本日の湧いた言葉(小悟について)


いしきはひとつしかないのに
?心 がいて
識別、や判断もしているというのはすべて妄想
だ。

起きてるようにみえて、なにもおきてはいない

これがノンデュアリティ

いしきはひとつしかないため
識別は無意味になっているため
識別に、たいする判断(思考)も無意味として
癒される

最近のYouTubeの
中途半端なノンデュアリティのはなしは

識別(五感)は湧く(起こる)が、判断(思考)のほうは意味ないよ
だとか
いしきのなかのまだ残っている偽教師(自我)が中途半端にスピークしているのである 笑

ラマナマハルシは
そんな中途半端なおはなしはしてない

いしきはひとつしかないため
?自我は実在せず、識別(五感、投影のこと)
が湧いてる(起きてる)
ようでも、
おきてはいない

これがシンプルな教えだ。

これが古えからの聖者(非自我)のおはなしだったはずだ(聖者ラマナマハルシたち)

最近のYouTubeのノンデュアリティは
古えの聖者のおはなしをしらないのだろうか

最近のノンデュアリティスピーカーはほっとくのが一番である
彼らも彼らのはなしも実在しない


努力はいらない
いしきは
いしき的努力をする以前にすでにあります
努力は馬鹿げたことであり

すでにただいしきがあるだけです

以上 
小悟についてのおはなしでした。


上記はいしき(小悟)
についてである。

平安(大悟)については

探究エネルギーといしき

また幻想であり

自然さが
ナチュラルスピリットの記憶である


平安を
聖霊の概念とすり換えて
対象としての平安として信じたり作り出そうとするのは
意味のないことである


その勘違い努力もいずれオチル
ことになる

ほんとはすでに努力は実在しないのだが

というのも

自然さ(自然精神統一、平安)は
これまたすでにあるからである


自然精神統一がすでにあるのにもかかわらず
わたしが平安を、信じたり、癒すふりして作ろうする
のは
勘違いである

すでに在る記憶に癒されるだけでいいのである。


すでに自然さ(一元)があるのに

なぜ心だとか物(人)だとかいうのだろうか
これが分離した心の投影の様子(二元状態)
であり

どちらも不自然な誤りである


悩まない(探究しない)ことである
すでに自然(一元)なのだから

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