スピリチュアルの本では
方便として、信念、思考を与え
られる
ほんらい
在るがままの記憶(平安)のために
信念、思考体系は必要ない
ノーマインドの記憶は
努力が必要ないからである
しかし
その沈黙(平安)の癒しがわからない
マインドや自我への信念がある場合
方便として
「あなた」は神の子であると語ら
れる
(ほんとうは「あなた」などいないのだが)
さて、この「わたし」は
信念を与えられる
聖霊とかハートという源のための概念である。こうして
スピリチュアルな本、信念、思考体系ができあがっていくことになる。)
ほんとうは方便にすぎず
実相においてすら
神の思考というもの、神のキリスト
という二元は
存在しないため
神の子であるあなたはいない
夢のあなた(神の子)がいるかぎり
その「わたし」は神の子であり、
「わたし」は対象である神と一つである
と
無意味な思考、信念がありつづける
しかし
ノーマインドの記憶(平安)には
信念、思考努力はじつはいらない
(最終的にはスピリチュアル本は必要ないのである。スピリチュアル的信念、思考体系、メソッドという努力が必要ない。)
そうして真実はナチュラルスピリットが
ただ在るのみである
その真実からの平安によって
夢という世界は癒される
いかなる本も、セッションも、対話も方便にすぎず
その真の意味はただ平安
そこには
いかなるわたしの依存もありえない
平安こそがみずからのかたちなき記憶だからである
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