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2023年01月09日08:59

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パパジの4分で目覚めという動画の感想

この昔の動画ご存知ですか?
http://salasvaty.blog94.fc2.com/blog-entry-101.html

感想を以下にかきます。

動画のさいしょらへんで

女性は

内観しても私をみつけることができませんでした。

さいしょ女性は自己の存在をあたりまえに前提として感じていました。

しかし
どこか特定の場にあると
錯覚していたのです。

観念として内側を指したり

肉体の中を指したり
していました。

しかし

実際には
その特定の場所には
いけませんでした。

いけないとき
どこにいたかとパパジに尋ねられ

この場にいると返答しました。
つまり彼女は
そのとき
リラックスというか
すでにある意識の存在
じたいが
自己であると
答えたわけです。

つまり
内観しても
自己はみつからず(それは自我という信念にすぎず。
信念は実際は事実としてみつかりません)

彼女が

まだここです

といったとき

もちろん内観状態(探究状態)
ではなく

そして物理的外界という特定のどこかも指せていません

つまり

まだここ

というのは

内観(自我)ではなく
内観ではないため
物理的外界
という対象でもなく

両者の識別をしていない

意識

のことを

まだここ

として

いいあらわしていたのだと

おもうのです

努力していない

識別していない

いわば
自然にただ漠然としていている存在です(いい意味で)


彼女が

まだここです

といったとき

意識からの言葉

自我からの言葉ではないとおもいます

しかし
じぶんは自我だと勘違いしていた
彼女は
まだわからない感じでいますね。


意識からの言葉で
まだここ

とのべたにもかかわらず

彼女は

自我があると
信じてますので


パパジに指示され

思考をとめます

そして
パパジの臨在(静寂)により

彼女は意識に気づきます



しかし
さいしょ動画をみていた
わたしはといえば

動画のとおりに思考をとめてみましたが

そして
意識に気づいたとは感じましたが

正確には

まだちゃんと自然にわかっていなかったといえます

まだ

思考を止めようとしている
努力(自我がなにかする)


あったからです

そして
思考をとめていないとき

思考や外界にまきこまれがちでした


というのも

努力(探究エネルギーである自我がなにかする)

で意識をとらえていられる


勘違いしてたからです

でも
意識はすでにあり

私が意識をとらえる
とか
私が思考をとめる
とか
私がリラックス(・無努力)する
とか

する
まえに

すでに意識があります
存在として


ほとんどの探究者は

すでにある意識を
つかって
内観しようとしてしまいます。

でも
それは
私という探究エネルギー
でしかないとおもいます


すでにある意識は
ほんとはなにも識別しておらず
外界にいるわけではないので
内観して
内側にはいる必要もないわけです


探究のエネルギーが
つまり
私という信念が
外界という識別をもっていて
あれこれ
物理的世界、感覚を
慢性的に識別しているわけで
思考もおきるわけです


これは惰性(カルマ)のようなもので
実質的なものはなにもないわけです。


惰性(カルマ)はオートマチックで
まだ起きているようにみえますけど

でも実質はないです。

純粋意識のなかでの
オートマチックな自我からの識別夢は
自我という催眠が
このように融けたことによって

実質的に無意味となっているのであり

無意味な人生が終了すると

夢は終焉します

旅のはじまりもおわりも

オートマチックな夢だったのです

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