みんながブッダ(阿部敏朗、向令孝、著)
101ページから105ページ
について
向令孝さんは
勘違いをなさっていますね。
コップを洗ってるとき
コップを洗ってる「私」は
いなくて
コップを洗っている
という現象とひとつになっている没頭している状態だけがある
それが無我だとか
いっています
「全然ちがいますね」
奇跡講座の自我の力動をなにも理解できていません
形而上において
意識のあとに
自我が
宇宙(の動き)を投影しているのです
その反映である
日常生活の「現象」は
自我そのものなのです
コップを洗っている現象すべてが
勝手な現象をつくっている
誤りの世界なのです
ほんとうの平安は
意識以前
ワクワク(主体)以前
なにもおこっていない
平安さ
が
ノンデュアリティの悟りなのであり
その平安さが
日常生活に浸透しているのが
奇跡講座のいう実相世界、真の知覚なのです
奇跡講座のいう神の平和
(リアルであるものは一切おびやかされない
、アンリアルであるものは一切実在しない。
ここに神の平和がある。
奇跡講座の要約文にもあらわされています)
は
コップを洗ってる無明活動
のなかに湧いてくる
たまにある私
を忘れたら、それが心身脱落だ
などというこの話とは
関係ありません。
もっと深い神の平安
とはちがいます。
奇跡講座は神の平安だけが
実在であると教えており
それが
偽りの世界のおわりなのです。
アーメン^_^
わたくしが
おもうには
わざわざ「改めて座る」なんて
大変じゃないですか。足腰に負担はかかるし
病人はできませんよ
それって
無条件の愛(自然)じゃないですよね
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