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2022年12月30日05:34

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花は咲く

甘え欲求を満たされながら育った人は、現実を甘んじて受け入れることができる大人に成長する。

生まれてきたばかりの赤子は、まず甘え欲求を満たされなければならない。

ついで徐々に、甘え欲求を断念させられながら育つ必要がある。

徐々に、厳しい現実を受け入れさせられていく、という緩やかな経過を辿ることが重要で、急激に厳しい現実がやってくると、そこで子供の成長はストップしてしまう。

その時点に心が固着したまま、精神的な成長を止めたまま、体だけ大きくなって大人になる。

たとえば、第一子として生まれてきた子は、弟妹の誕生と共に、親の愛情を誰にも邪魔されることなく独り占めにできる一人っ子という特権的地位を奪われる。

このときに、親の愛情が弟妹に一気に持っていかれてしまって、親のフォローが得られなかった場合は、固着ということが、起きてしまうのだ。

いわゆる失楽園の体験である。

親の言う通り、自分の思いを我慢して、弟妹のために、譲らなければならない。

自分の思いを抑えて、弟妹の面倒を見る側に回らなければならない。

そうなった時に、心は現実を受け入れられないままに、弟妹への逆恨みと嫉妬を内心に隠し持ったままで、行動面だけは親が強いてくる現実に適応している状態になるだろう。

心を開けない、裏表が激しい人間の出来上がりだ。

僕は、第一子でなく末っ子だけど、裏表が激しいタイプであることは、確かだ。

言いたい放題言い放つタイプのようでいて、じつは何も一言も言い返さず泣き寝入りするタイプである。

内心泣きながら大激怒していても、表向きは穏やかに振る舞って見せる修行が人生だ、と思っている。

現実を受け入れ切れないままに、表向きだけは合わせるスキルが発達してくるにつれて、裏表が激しいタイプであるという潜在していた僕の本性が顕在化してきて、今に至る。

現実を受け入れることができていない人間の特徴を、以下に、いくつかピックアップしてみる。

太宰治は「人々は軽蔑し合いながら生きていて、私はその一員として振る舞う術を持たない。」と言った。

人々が軽蔑し合っているというのは、どういうことかと言えば、どんなに人間が出来ていても、誰とでも相性が合うような人間はいないわけで、「皆にて褒むる人もなし。皆にて謗る人もなし。」(法句経)と釈迦が言う通りで、人々は、合わない人とでも表面上合わせつつ、生きていかなければならない。

その場合には、雑ないじられ方したり、馬鹿にされたり、軽く扱われたり、軽蔑されていると感じざるを得ないような言動をされても、ナチュラルに見下されていると感じても、カチンと来たり熱くなったりせずに、当然のこととして冷静に、軽く受け流せるのでなければならない。

それこそ、社交のスキルというものなのだけど、社交の才のない人は、サラッと軽く受け流すとか、軽くいなすとか、ということが、できなくて、冷静でいられず熱くなってしまう。

現実を受け入れることができていない人間の特徴だ。

虐待されながら育った男性で、虐待されながら育った生い立ちを誰にでも分かってもらおうとして、ネットで大々的に発表していて、周りの皆から「親の所為にするな」「大人になったら自分のことは自己責任だ」と冷たく否定されても、自分は理解されない存在だという現実を受け入れることができず、いつまでも諦念を成立させることができず、不幸な過去を語り、自分語りしている人がいる。

まず甘え欲求が満たされて、ついで甘え欲求を徐々に断念させられるという緩やかな経過を辿って、しかるのち現実を甘んじて受け入れることができる成熟した大人になる、という過程を経ていないからだ。

四方八方を敵に回してでも、承認欲求を満たしたくて自分語りせずにはいられず、自分を分かってくれない世の中を恨み、怨念の塊になっていて、その意味では、否定されながら育った人間の心理の基調は「ルサンチマン」(=怨恨)である、と言った、ニーチェは正しい。

僕はかつて、結婚したいと思っていたメンヘラ女性との将来設計のために、コンビニで一年半くらい、働いていたことがあるのだけど、コンビニバイト時代は、気合いを入れさえすれば人当たり良くできたにせよ、そのときの裏表が激しくなっていく経験などを通じて、思い知らされた現実はショッキングすぎて思い出せないトラウマになって、向き合うことのできない過去が現実認識の盲点を作ってしまった。

このような、現実検討能力を低下させる、現実を甘んじて受け入れる能力の低さこそ、否定されながら育った人の特徴なのだ。
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