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2022年12月08日12:43

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宗教信仰の本質について

新約聖書に掲載されている手紙の書き手たちのうちの一人である、パウロは、キリスト教徒たちへの大迫害という悪行の限りを尽くしていた最中に、光に打たれて、神から心に直接語り掛けられる内的体験をして、回心を経験して救われた。

パウロの回心とは、パウロが神を信じなくても、神から信じる心を与えられて、パウロにおいて神の心が神を信じるという内的体験が引き起こって、パウロが救われた、ということだ。

『パウロと親鸞』(佐古純一郎)によれば、パウロも親鸞も、神仏から心に直接語り掛けられる内的体験をしている。

「弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば」と『歎異抄』の第14章に書かれている通り、親鸞もパウロと同じように光に打たれて、自力で阿弥陀仏を信じなくても、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏という信じる心を貰って、親鸞において信じる心である南無が阿弥陀仏を信じるという内的体験が引き起こって、親鸞は救われた。

このような内的体験が引き起こることを指し示して「一念発起」と言っているのである。

一念とは仏を念ずる心が生起する一瞬のときのことを、言っている。

親鸞においては「南無阿弥陀仏という念仏」は信心を伴わない「空念仏」のことではなく、阿弥陀仏から信心を貰って救われたことへのお礼としての「報恩感謝の念仏」のことなのだ。

浄土真宗の開祖である親鸞の他力本願の思想には、浄土宗の開祖である師法然の教えが、混在していて、他力の信心を以って本と為す親鸞の教えには、念仏という自力の行を以って本と為す法然の教えが、混在していて、矛盾が内在している折衷主義的な体系を信じることを、親鸞は奨励しているのである。

宗教学者佐古純一郎によれば、神仏の光に打たれて神仏によって心に直接語り掛けられる内的体験をした、パウロと親鸞のように、宗教家というのは大抵、宗教家になるきっかけとなった、神秘体験をしているものなのだ。

そして、神秘体験は、宗教家によってまちまちで、各自違う。

たとえば、インドの天才数学者ラマヌジャンは、ヒンドゥー教のナーマギリ女神が夢の中に登場してきて、数学の定理を教えてくれたりして、しかし証明抜きに結論だけ教えてくれるものだから、百年ぐらい経ってから人の手で証明されて、数学界で正式に定理として認められたりしている。

このように、神仏からの霊感を受けて、人間が書いた聖書や経典は、真実である。

聖書も仏典も、一人の書き手によって書かれたものではないので、書かれている内容が書かれている箇所によって違う。

真実は一つではないのだ。

世界は、相互に矛盾する多数の解釈を許容する不思議なテキストなのだ。

人間の思議を超越している、万有の真相は、不可解だからこそ、「ただ理解せよ」と言われるのでなく「ただ信ぜよ」と言われるのである。

そのことを理解していたからこそ、親鸞は自己の体験に基づく信仰を絶対視せずに、自己を相対化して法然の浄土宗にも従いつつ、浄土宗との折衷案としての浄土真宗を打ち出したのだ。

宗教を真に信じるとは、相対主義もしくは折衷主義を信じることである。
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