mixiユーザー(id:68021579)

2022年11月22日07:07

67 view

反キリストの力動

反キリストの力動

それは、

生きのびようとする本能であり、エゴ的直感
のシステムにとらわれていることである。

人は生まれときから、家族の特別な愛(ハート)

にならされる

いわゆる世間的ハートがあたりまえとなる

そして恋愛という衝動は、あいまいなこころ
から
極端にハートが締め付けられる衝動としてもあらわれる

なぜなら、心も肉体も前提としない抽象的自然さ
から
ハートという枠組みをリアル(締め付けること)になるからである。ロマンスもそう。

そのようにして衝動、エゴ的な直感により、
人は特別な関係、特別な社会の形成をこれからも維持しつづけるようになるのだ。

人は特別な活動や状態に花束を贈る
花とは、人間の生殖の性器にあたるもの
である。
人はエゴが投影したエゴを維持するシステムのひとつである肉体の象徴を贈るのである。

エゴ的直感に魅せられた人々は花のことを美しいとか、魅せられる香りだとおもうかもしれないが
その正体はエゴの分離の衝動の象徴としての、そのなかの偽りの結合のシンボルとして、
称えられているにすぎない。それを人は歓喜とよぶ。人は歓喜に執着(愛着)している。

そして、家族や恋愛
そういった慣れきった存在がなければ、エゴは孤独で寂しい
という社会になるわけである。その代替として
家族にとらわれない福祉的活動が必要とならざるをえないが
それもまた、心や肉体を前提とした社会であり、幻想の社会(アクエリアス文明)である。

葛藤とは
あるがままへ、と、特別な世間的なハートへとのあいだの
衝動のちがいである。
一方は非実在(自我、反キリスト)であるため、
葛藤そのものが
じつは実在しない。

よく無我夢中という状態といわれる
状態もあるが、
対象への没入は愚かさである。
なぜ、それが無我に近い状態であるといわれる場合があるのかというと、
自然なる愛のシンボルとして投影している場合には
その対象への没入は、無我であるかのように
みえるからである。
それは、宗教や瞑想、スピリチュアルメソッドへの傾倒、歌を歌うこと、芸術活動、奉仕活動としてあらわれている。

しかし、
真実からみれば、
まだ無知(反キリスト)であり、

あるがままでよいという唯一の福音を伝えているのではないことは
明らかなのである。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年11月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   

最近の日記

もっと見る