観照者(意識)について「私」が考えたりすると観照者を1つの概念に変えてしまい
(私の概念 つまり正体は自我)
あたかも観照者を
自我と意識の中間にあるものとして考え「作り」
日常の経験を
その概念によって、無視しようとしてみたり
さらには
自我の
理想としての「(でっちあげた)観照者」
にそわせて
アゲな幸せな知覚にひたろうとする
(強引に知覚を変えようとする)
ことになります
これは意識として
グラウンディングしていく
知覚ではありません
(すべては意識^_^)
たとえば
つらい気分を感じるのが嫌で
自分の望ましい気分に変えるために
観照者という
架空のありえない概念を使う
わけです
自我が対象として概念化した、
対象アゲ観照者、という概念にそわして
強引な幸せを投影するのです
それは
知覚の癒しではありません
じつはあるのは
意識と
意識上の自我のいやし しか
ないのにもかかわらずです
観照とは癒しの別名でしかなく
観照者という
自我は仮面(対象)をかぶった
状態で
その(理想)を投影しているだけなのです
つまり
癒し(グラウンディング)ではなく、知覚の歪曲なのです
意図(自律してコントロールできる)があります
それは
意識上の自我です
意識はすでにあり癒しもすでにあるのです
^_^小悟(意識バージョン)からのメッセージでした
ログインしてコメントを確認・投稿する