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2022年03月11日01:17

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趨勢

日テレ『しゃべくり』『夜ふかし』時間繰り上げ 『深イイ』&『今くら』は終了へ
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=6880578




深イイ話は、初期の司会者は、言うまでもなく島田紳助氏であった。



この頃フジテレビでヘキサゴンが人口に膾炙していた。いきおい、氏の「ファミリーを作りたがる」という趣向も、顕在化していた。そして、番組を私物化するという志向も。



個人的には、明石家さんま氏と、明暗を分けたきがしてならない。




「こいつな、普段はこんなパッパラパーでも、ええとこあるねん。それはな〜」


パッパラパーというのは、あんたの主観だろう。手前の価値観を当てはめるなよ。

だが、人によっては、厳しくされて、褒められて、この人はダメな私を分かってくれている、と崇拝してしまうのだろうか。



一般的に、ある過酷な状況下では、男性はサディストの趣向が強まり、女性ではマゾヒスト気味になる。というのは、前者は相手を屈服させたい欲求、そして女性は、相手を崇拝する、という欲求であった。




これは美人に精神疾患気味の人が多いことからも、相関関係があるだろう。美人というのは差別的に聞こえるかもしれないが、注目される反面、妬み嫉みが尋常ではない。そして、こういう人が「負の面」をを発動させたとき、それを紳助氏の如き人は見逃さないだろう。こいつは、支配される事に喜びに感じる女や、タイプや。俺の仲間に入れたる代わりに、俺の「人身御供」になれ、という態度を取っていたであろう。



そして、当時、もしこのような紳助氏のタイプの人間が近くにいれば、断言してもいいが、まず間違いなく付け込まれるだろう。私は「何やこのアゴ(氏の蔑称)は」と突っぱねることも、「表面上は調子合せて、陰でバカにして、良いように利用したったらええねん」と腹黒さと世渡りを発揮することもできないだろう。その変わり、「無価値な俺の事を理解している、神の如き人や〜」と、まるで教祖のように接していたかもしれない。我ながら、阿呆の指揮官を妄信しているようで、甚だ気色悪い。



そして、そのような「気色悪いヤツ」が集う集団に、畢竟、学生時代、誘因されていた。「無価値」な自分に相応しい所を探すべく、同じような「無価値で、自己肯定感の低い」連中が流れつくような場所へと。



さて、母性と父性の違いで、こんな話があった。


母性とは、ありのままの自分を持てる力をは育む。多様性を認める。要は「自分は、社会的にどうとか関係なしに価値がある」と感じれる力だそうだ。そして、色々な分野を選べる。


一方で父性とは、自分以外の「別のもの」を受け入れる力をはぐくむ。困難に立ち向かい、挫折し乗り越え、能力を習得していく力も、これに当たる。また、母性の「多様性」というのは、「社会関係なしに、自分はいてもいい」という、自分本位であり、他者の枠に捉われない概念であるが、父性の「多様性」といのは率直に言って、自分と「他人」であり、「自分以外の他者」の多様性である。父性とは究極、言語であり、自分と他を分断してくれるのだ。これがなければ、甚だ自分本位の、視野狭窄人間になってしまうだろう。反対に母性がなければ、単純に、自分自身を大切にしない。自分という人間を、あるがままに認めれないそうだ。


私は、例えば学校でも職場でも、こういう理屈は当てはまると思う。自分の所属するコミュニティや、職場というのは、じっくり選べばいいだろう。しかし、一度「これだ!」と決めて入社すれば、いつまでも友達気分でいる事はできず、規則に則り、ケジメある職場での生活を送らなければならない。


要するに、母性的なものは「自分に合う所」を選んでいる状態。一方で父性的なものは「選んで入った後、いかに規律正しく、他者のため、行動できるか」であると考えている。




私という人間はどうかと言えば、自分で言うのも何だが、父性的な部分で言えば、かなり自信がある。少なくとも、周りの人間に引けをとらないだろう。



ただ問題は「母性的」な部分であった。つまり「自分に合う所、能力に合致すると場所」を選ぶという力が-----おそらく壊滅的に欠けてきた。




場所を選らばず、場数を踏むのは大事だろう。だが、選ばなくて良い所もあれば、踏まなくて良い地雷もある。好き好んで、地雷だらけの場所に、足を踏み入れなくてもよい。


そして、男女の違いにもう一つあった。「隠すもの」と違いとして、男は「悲しみや切なさ」を隠し、女の人は「怒り」を隠すのだそうだ。



確かに、男性は自分の感情を表現するのが苦手らしい。「男らしさ」の呪縛だろう。しかし、女性の「怒り」とは?おそらく、感情というのは、女性同士共感しあって、ストレスを溜めないようにしているのだろう。しかし「怒り」というのは?


私の推測だが、それは「特に男から、自分をぞんざいに扱われた」という怒りであろう。




怒りの違いでも、男はロジカルに「こういう事で、俺は怒っている」だが、女性の場合は、もう「怒り」が先に来て、それを正当化するために、芋づる式に、相手の「不誠実さを表す」エピソードを蒸し返してくるのだそうだ。男は一定時間、それは継続するが、女性の場合は、男の比ではないほど、長時間継続するそうだ。感情の引き出しが、女性は圧倒的に多いのだろう。


ちなみに、女性の音楽教師でヒステリーの傾向がある方も多いが、それは極めて理論的な学問であるものの、その人自身が生徒に上手く説明できないのでないか。加えて、音楽や合唱に興味のない男子も多く、その対応が上手くいかず、「感情の大渋滞」を引き起こすのだそうだ。



閑話休題、ただ、私は「怒り」を隠す、という表現が、とてもしっくりきた。母が退職したあと、「人を傷つけてはならない。自分は価値がなく、周りの人間は、俺よりも遥かに優れている」という心境から、「ぶち殺さなきゃ気が済まねえ。カトー、お前は、なんでこんなクズに、良いように利用されてんの?、まあ良い、とりあえず、あのクソを血祭りにあげてから考えよう」とものに変化していった。


なぜ、そういう心境になったのか。それは、私に「父に近しい部分」が出現したからである。要は、「何でそのおっさんやおばはんの解釈を、お前が間に受ける必要があるねん、そいつらの主観やろ?俺には俺の解釈があるがな。」というものであった。




当り前であるが、今まで、まともな先生や友だちやは、私を正当に評価していた。だが、人生のある時期で「まともじゃない」奴が発端で、複数の事件に巻き込まれることになる。



イジメをしている連中が「あいつ、調子のってるよな〜」というのは、そいつの解釈であって、どうしてそいつに合わせる必要がある?ただ不幸だったのは、男子が少ない分「合わさざるを得なかった」という点であろう。そしてもう一つは、「まともじゃない顧問」が発端で、その崩壊の「穴埋め」のため、私が呼ばれることになった。



この人に関して、部員の多くは「あのおっさんは、やる気も経験もない、あり得ない」と口走っていたが、そう思うのは、自分らの解釈である。もちろん、素人顧問の解釈で言えば、自分は何も間違っていない。「他の先生が顧問を断るから、俺にしわ寄せがきた。土日はゆっくりゲームがしたい。俺は嫌な役割を押し付けられた、可哀そうな被害者だ」と、初対面で僕らに告げていた。





あんたが、周りから罵倒されて、惨めな思いをしていても、はっきり言って私には何も関係がない。許せないのは、そういう「周囲からバカにれている」教諭に、俺がどうして、ボロクソに叩かれなくてはならないのか。それとも、俺を目の敵にして、集中砲火を浴びせて、である。




当時、私は明らかに「他者志向」であり、女性的な面を持っていた。屈服させる、打ち負かす、とい趣向ではなく、あくまで共同路線を人と取りたい、という発想であった。




だがそこで、所謂「典型的な男性思考」----つまり、「他者を屈服させ、打ち負かしたい」という思考を持つ人間の群れに居合わせてらどうなるのか。十中八九、そういった「女性志向で、献身的」な人間というのは、格好のターゲットにされるのであった。



因果な事だが、クラスでは、女子多数、男子小数という事が裏目にでた。私は大多数の女子とは何も問題なかったが、男子の三人か四人が、所謂「自分のために、他者を利用してもいい」という考えの連中が、クラスを台無しにした。最も、孤立するとか、つま弾きにされるのを、一番恐れていたのも、皮肉だが、こいつら自身だったのだろうが。




そして、「ボロクソに批判される」事を一番恐れていたのも、言うまでもなく素人顧問であり、こちらも、「立場が違う、それでいて圧倒的に弱い人間に憂さをぶつける」ことに罪の意識なぞ持たなかった。それは当然の権利だろう。なぜなら「嫌々させられている」俺は、可哀そうな被害者だから、であった。彼はそういう理屈を持ち出した。そして御多分に漏れず、彼の末路は想像したくない。他人に蔑まれていくってのは、どんな気分だい?ああ、すまない、近づかない方が良いな。負の空気が移るから。



この時期、私は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。いじめをしている奴らは、でかいことを言っているが、一人になれば、概しておとなしく、何もできない。いや、その場その場で寄生虫の如く「便乗相手」を見つけるか、あるいは、その場その場で新しい「犠牲者」を見繕って、手前が仲間を作る口実にするか---だがやはり、最後の方で、いつか必ず、そいつ自身の「悪行」が巷間知れわたり、「他者をネタにする」ということを、自分自身が何倍も味わう事になるだろうが−−−−俺はお前じゃないし、お前じゃなくて良かった。そんな恨まれる人生送りたくねーわ。





そして言うまでもなく、私をボロクソに批判した教諭も、感じよくし慕われるような人種ではもちろんなくて、数いる高校の教諭のーーー人望的にも指導力的にも「下の下」の人間であった。そして、どこにいても、自分よりも更に「下の人間」を作りたがるのも、世の常だろう。





今思えば、多少でも、俺に「男性的」な要素が、今よりも強くあれば良かったように思った。そうであれば、相手に不利な条件を押し付けられそうになったら、反撃して「気まずく」させてやることもできたし、それが行きすぎたら、ジャイアンではないが、それこそメタメタのギタギタにノしてやる!と息巻くこととできただろう。例え「尊敬される」からほど遠い人生であったとしても、私にとっては、まだ幸せだったのかもしれない。
























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