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2022年03月06日12:13

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苦しむことを知るということ その二

前回からの続きです。苦しみは人間に力によって取り除くことができるし、そうであるかぎりは取り除くべきである。今日ぼくらはこれを信じて疑いません。しかし、人間がいつでもそう考えていたわけではない。そんなことを人間が信じられるようになるには、それなりの精神史を経なければならなかった。それが前回のお話しでした。

ところが、これだけ科学技術が進歩し、自然の専制から解放されたように見える人類であるのに、いまだにパトスの知のようなものの必要が消えてなくならないと言われている。どうしてなんでしょう。

ぼくらにはできないことがある

まずこれを考えてみましょう。かつては知は受苦の経験と密接な関係があったんですが、ぼくらはパトスの知、受苦の知などというものを想像することが難しくなっている。「知る」ということと「苦しむ」ことが両立しにくくなっている。

以前に「知は力なり」というフランシス・ベーコンの言葉を紹介したことがあります。力というのは「できる」ということですから、知はぼくらをしてそれなしではできなかったことをできるようにしてくれる。そして、その力が向けられる目的の一つは、まさに苦しみの除去である(もう一つは快楽の追求)。そう言えるかもしれません。

他方で、「苦しむ」の英語である suffer の語源は、「何かの下に置かれる」、「重荷を背負わされる」という意味です。であるから、何かを背負わされているのだけども、それを拒否せずに背負って生きていくことを可能にする知がパトスの知、受苦の知です。

とすると、パトスの知というのは、力としての知を否定する知です。ぼくらには「できない」ことがある。これを知らせてくれるような知と言えるかと思います。

そんなことを思い出させられるのは、あまり愉快な話ではありません。それでも、これを忘れてしまうといろいろな不都合が生じる。ひとつは思い上がりとか傲慢と言われるような悪徳です。何でもできるつもりでいると、自然とひとは偉そうになって、周囲に無茶な期待を抱く。そうして、期待に応えないものにたいして不寛容になる。こんな簡単なことがなんでできないんだ、とイライラしてばかりいる。

そこからなくてもよかった不満も生じてくる。できるはずなのにできない。これが我慢がならなくなる。この不満が自分に向けられれば自己嫌悪になるし、他人に向けられれば、誰かがやるべきことをやってないはずだ、責任者出て来い、という他責の怒りに苛まれる。

そして自分が有してると思う力と現実のギャップを埋めるために、安易な解決策に頼るようになる。大きな問題を個人的な問題に矮小化してしまったり、少数の不心得者を除去しさえすればすべては丸く収まるなどと考えたりする。

ぼくらの力には限界がある。ぼくらにはできないことがある。それを明瞭に認識していれば、この不寛容や忍耐不足、拙速な判断を抑えられることができる。たいがいのことは「まあ、しかたないな」で済ませられるようになる。

なんてことはない、そういう話です。だけども、そんなことを言っていたら、我慢しなくてもいいことまで我慢させられることになるんじゃないか。自分なんかはイライラ派でありますから、どうもこのパトスの知という奴を信用しきれない。いったいぼくらに「できない」こととは何だと問い質したくなる。


科学技術の限界

だが、そうやって自分で考えてみると、確かに「できない」ことはいくらでもある。もちろん個人の力ではできないことだらけなんですが、仮に人類が力を合わせたとしても、まだ「できない」ことがたくさんある。

一つには、いくら進歩したといっても、科学技術はまだ自然を完全に征服するに至っていません。まだまだ未解決の悩みや苦しみの種がある。おとなしく人間に従っていたと思われるような自然が、突然に地震や火山噴火のような形で牙をむく。豪雨によって水かさを増した川が堤防から溢れ出して、家々を呑み込む。未知の病気がどこからともなく現れて、世界中に死者を山積みにする。無辜な幼い者さえ例外にしてくれない。これらを防ぐ手段を、科学技術はまだ提供していない。

だから、パトスの知の必要もなくならない。「日本人の能天気さ」は災害の多い国土で生きる人びとのパトスの知ではなかったか、という文章を以前に書いたことがあります。東北大震災以来、自然の圧倒的な力に呑みこまれないようにするための知、とでも呼ぶべきものが見直されてきていますね。

しかし、これだけならば、さらに科学技術が発達すれば問題は解決されるかもしれません。科学技術は過去にも多くの問題を解決してきた。将来にも同じような役割を果たしてくれる。そのことを否定する理由はない。そう信じるのであれば、パトスの知の必要も一時しのぎでよいはずです。

しかし、もう少し複雑な受苦の経験もあります。たとえば、病気や死です。医学の進歩は人間の寿命を長くしましたが、だからといって病いや老いに伴う苦しみは消えません。むしろ人が長生きになった分だけ、今までにはなかったような苦しみを苦しまないとならないようなことにもなっている。一例を挙げれば、人が長生きになるのは喜ばしいですが、その結果として社会の高齢化も進む。そして、高齢化社会に伴う周知のさまざまな悩みや苦しみも生じています。

科学技術の発達がかえって苦しみを生み出す別の例としては、核エネルギーがあります。地球上では自然に起こらないような現象を、人間は人工的に作り上げることに成功した。そして莫大な量のエネルギーを獲得している。だけども、大量破壊兵器とか原発事故のような苦しみの種もまた生むことになっている。科学技術の発展が、よいことだったのか悪いことだったのかよくわからない。

より一般化して言うと、こういうことです。一つの苦しみを取り除くと、ソノ結果トシテ、また別の苦しみが作り出されてしまう。であるから、苦しみを取り除く努力は永遠に続くいたちごっこで、一つの苦しみを別の苦しみに置き換えるだけである。そうであるなら、いくら科学技術が進歩しても、やっぱりパトスの知の必要はなくならない。


大地に縛られた人間
……

続きは↓
苦しむことを知るということ その二
https://note.com/telemachus/n/n81e2d2ab3f20
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