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2022年02月12日05:52

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三元論

20世紀の数学者ノイマンがコンピュータの概念を定義しようとしたら、すべての物がコンピュータであることになっちゃった、という経緯を踏まえて、高性能のコンピュータにすぎない脳に心が存在するなら、すべての物に心が存在する、という考えの是非を巡って、賛否両論が出ていて、心の存在から非存在までの存在度は程度問題で、脳のみならず、すべての物に心が存在するという考えは、概念の適用範囲の押し広げ過ぎだ、という議論も出ている。

とりあえず脳とコンピュータの関係について、以下に、説明を試みることにした。

コンピュータは、スイッチのオンとオフに対応する1と0を用いて、二進法で表記される数の計算をするものだから、計算機と呼ばれる。

計算機がスイッチのオンとオフだけで考えるのと同じように、脳も脳細胞の興奮と非興奮だけで考えているのだけど、脳の論理素子はスイッチではなく多数決素子と言って、興奮が賛成案で、非興奮が反対案で、議案の議決を、賛成多数で可決に、反対多数で否決に、決める。

すなわち、脳細胞は、単細胞生物アメーバみたいに四方八方に触手を伸ばして周囲の脳細胞たちと連絡を取り合う連絡網をなしていて、周囲の脳細胞たちの興奮を、多数決原理で、電気信号として伝えるか伝えないか、決めるものだ。

このような脳神経回路網をニューロンネットワークと呼ぶのだけど、これを模したニューロコンピュータというものが実現して、人工知能に取り入れられていることは、周知の事実である。

物質の構成要素の最小単位である素粒子の時計回りのスピンと反時計回りのスピンが0と1に対応して、素粒子に計算させて、その結果を人間が読み取れるようにしたものを量子コンピュータを呼ぶのだけど、このように対象に働き掛けてこうすればこうなるという結果を得ることができるものを、広い意味でコンピュータと呼ぶ。

原因に対する結果を人間が読み取れるとは限らないので、入力に対する出力を人間が読み取れるようにしたものを、狭い意味でコンピュータと呼ぶ。

このように、入力に対して出力を返す関数のことを、広義のコンピュータと呼んでいるのだ。

スイッチに電流を流した結果がパソコンの画面に表示されて人間に読み取れるのと同じように、たとえば、関数y=4x-2があるとして、x=2を入力すれば関数が計算してy=6という計算結果を返してくる。

現時点における物の空間的位置の関数として、次の瞬間の空間的位置が決まるような、因果関係を書き表した方程式が、物理法則だ。

このように、因果のことを我々は計算と呼んでいるのだ、というのが、ノイマンの計算機についての原理的考察である。

ただし、心は計算だけしているわけではなく、計算する知性という上部構造だけでなく、心には感情や意志のような下部構造があるからこそ、計算を狂わせる狂気があるからこそ、A=Aという計算結果が導かれずAが非Aになるために、世界は不変不動の静止空間ではないのだ。

つまり、時間が心なのだ、とベルクソンや道元は、説く。

そう考えなければ、なぜ心が無い物が集合したら心が有るようになるのか、説明できないではないか、というわけだ。

髪の毛や爪や皮膚は死んだ細胞だけど、死んだ細胞に関しては我々は何も感じていないわけで、もし感じる心に心の本質があるとすれば、死せる物質に心は無い。

死につつある過程が苦しみなのであって、死に終えたら、死せる物質に心は無い。

心が有るのでなく、心のもとになるものが有り、それが心に成るのだ、無が有に成るのだ、というのが、心の無い物が集合した結果として心が有り始めたとする、唯物論の考え方である。

われわれが気絶して気を失ったり失神したりすることがあるのは、心になっていた心のもとになるものの存在を、示唆しているわけだ。

つまり無意識的段階の心が存在するのでなく、無意識は心の内に含めないものとする、という心の定義を、唯物論は採用する。

世界のうちの99.99%以上が無生物界で、生物界は限りなく0%に近いのに、なぜ自分は選りに選って生物なのか、という問いへの答えとして、生物にしか心は無いからだ、とする考え方である。

心の無い物が存在したり、物質に基づかないような心が、物質から遊離して、物質の外部に漂ったり、できる。

たとえば、虐待されている子供が、親に殴られる痛みに耐えかねて、心を体から切り離して、心を体から飛ばして天井に浮遊させて、天井から殴られている体を見下ろしていて、他人事だから痛くない、という現実逃避の仕方をしていることが、精神医学の世界で報告されていて、解離性同一性障害は、心と体の切り離しが癖になることによって、体において心が一つにくっつかなくなっちゃったこととして、説明されている。

物と心は、相互乗り入れの関係にあるけれど、切り離し得るのだ。

東洋哲学的な物心一元論と、西洋哲学的な物心二元論を、アウフヘーベンしたら三元論になる。

そして今、人はどこから来てどこへ行くのか、謎なのである。
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