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2021年12月20日13:01

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光の形而上学と神仏

パウロは神の啓示の光に打たれて神から心に直接語り掛けられる内的体験をして回心を経験して救われた。

親鸞は阿弥陀仏の光明に心を照らされる体験をして阿弥陀仏から信心を貰って極楽往生の確約を貰って救われた。

このように、神仏は光の比喩によって語られる。

そこで、光について、その本質を明らかにすべく、以下に、考察してみた。

アインシュタインの相対性理論は、三次元の空間をトランポリンのように水平に張られた二次元のゴム膜面に喩えて、物質という重りが膜面の上に乗ることによって膜面を下方向に膨らませて出来る斜面を周囲の物質が転がり落ちることとして、重力現象という落下現象を、説明したものだ。

したがって、アインシュタインの相対性理論の基礎方程式であるアインシュタイン方程式は「物質の密度=空間の膨らみ具合」という等式になっている。

アインシュタイン方程式からは、我々の住む膨張宇宙空間は、物質密度無限大の一点からのビッグバンで始まって、密度を薄めながら今に至るまで膨張拡大を続けてきて、今後も密度を薄めながら膨張拡大を続けていって、物質が光を放出し切って、この世には光しかなくなって密度がゼロになった暁には、宇宙空間は一点に縮んで消えている、というふうに、宇宙の終わりが宇宙の始まりであるとする、ペンローズのサイクリック宇宙論が、導かれることになって、宇宙は超宇宙を合成する素粒子という点粒子の一つである、というふうに、素粒子一個一個が宇宙一個一個であるとする無限後退説が、導かれることになるわけだ。

つまり、光より遅い者が光の速さに近付くにつれて、空間的長さが縮んでいって、それに反比例して、時間が遅延していって、光速度に常に既に到達している光においては、時間が止まり、全空間が光が存在する一点に収縮していて、光は速度無限大で時間経過なしに空間移動していることになって、光は全空間に遍在していることになる。

しかしながら、光が速度無限大なのは、光が存在する宇宙空間を外部から見て、光の世界の外に外在する者から見たときの姿だ。

太陽からの太陽光は1億5千万km離れた所にある地球に到達するまで8分掛かる、というふうに、光が内在する宇宙空間内部に存在する者にとっては、光は秒速30万kmという有限速度である。

動いている光源から動いている方向に発射された光は、光源の運動速度に光速度を足したものになるのでなく、光速度のままである、というふうに、光速度不変の原理が成り立つのは、無限大に何を足しても無限大のままである、ということに、対応している。

つまり光は有限速度であると同時に速度無限大であり、光が内在する世界の内部的な存在者にとっては有限速度に見えて、光が存在する世界の外部に外在する者に対しては速度無限大の姿を現す、ということだ。

このように、世界を外部から密度無限大の一点として見る視点からは、世界内はブラックホール内である。

ブラックホールに落下していく者は、ブラックホール中心に近付くにつれて斜面の傾きが大きくなるのに応じて、落下速度を速めていって、中心に到達するまでに光速度に到達して、そこで時間の遅延が極限に達して時間が止まり、さらに中心に近付けば、時間が逆流するので、ブラックホール内から見ればブラックホール内の者がブラックホール外に落下していくように見える。

このように、ブラックホール内外の関係は、お互いに自分が光の世界内に住んでいて相手がブラックホールであるという関係にある。

このような、有限速度の内在者としての光と、速度無限大の外在者としての光の、二項対立を、超えた、真の統一にこそ、光の本質があるのだとすれば、その本質を神仏という超越者が体現していて、光そのものが顕現するときが、パウロにおいては神による啓示の光に打たれたときだろうし、親鸞においては阿弥陀仏の光明に心を照らし出されたときだろうし、それがウパニシャッド哲学の梵我一如ということであろう。

我々は我々が住んでいる世界内から一歩も外に出て行くことはできないが、外から世界内に救いがやって来ることなら、あり得るのかもしれない。
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